あなたに贈るシアワセの涙

宮下龍美

第1話 不幸な俺と少女の涙

「ツイてねぇなぁ……」


 図書室の本棚の前で尻餅をつきながら、俺は一人小さく呟いた。オデコのあたりに鈍い痛みが広がっている。もしかしたら、赤くなってるかもしれないし、コブが出来ている可能性だってある。

 俺にこんな仕打ちをかましてくれた下手人、床に散らばった数冊の本を睨むが、相手は無機物だ。そうした所で、俺の恨みが晴れるわけでもなければ、本がなにかしらの反応を返すわけでもない。

 ただ、返却された本を元の位置へ返していただけなのに、どうしてこんな不幸に見舞われているのか。

 本が落ちた時の音を聞きつけたのか、近くから足音が聞こえてくる。今日の図書室は通常営業、即ち利用者0人なので、この広い室内にいるのは俺と司書さん、それから俺と同じクラスである図書委員の女子が一人。


「椿くん、今凄い音が聞こえましたけど……」


 そろりと本棚の陰から首を覗かせた、メガネにおさげの文学少女。俺にとって唯一友達と呼べる相手の駒鳥こまどり小鞠こまりが、状況を視認してすぐ、驚いたように目を丸めた。


「だ、大丈夫ですか⁉︎」

「あー、大丈夫だから。あんまり大きい声出さない方がいいぞ」


 心配してくれるのはありがたいが、ここは図書室だ。利用者が一人もいないとは言え、大きな声を出すのはマナー違反だろう。

 駆け寄って来た駒鳥を諌めつつ立ち上がり、落ちていた本を一冊拾った。


「こいつらが落ちて来ただけだ。いつも通り、ちょっとツイてなかったんだよ」

「け、怪我とかは……?」

「だから、大丈夫だって。駒鳥は心配しすぎ」


 手に持った本でポスンと軽く頭を叩いてやれば、あうっ、なんて可愛らしい声が漏れる。

 駒鳥とはもうそれなりの付き合いなのだから、いい加減これくらいの不幸で取り乱さないで欲しいものだ。


「怪我してないならよかったです。片付けるの、私も手伝いますね」

「おう、ありがとな」


 メガネの奥の柔らかい瞳を細め、微笑んでくれた駒鳥に手伝ってもらいながらも、落ちて来た本を元の棚に戻していく。

 毎度毎度、彼女には迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ない。


 さて。この蘆屋高校一年一組であり、図書委員に所属している俺、椿つばきあおいは、絶望的に運が悪い。ツイていない。いつも不幸がまとわりつく。

 まあ、言い方は様々あれど、本が大量に落ちて来た上にオデコにクリーンヒットしたのは、そう言う理由からだった。いや、強いてもう一つ理由をあげるなら、俺の身長が低いのに高い所に手を伸ばしたから、なんてのもあるかもしれないが。

 今は俺がチビなことなんてどうでもいい。問題は、この運の無さだ。

 電車に乗れば当然のように遅延し、楽しみにしていた出掛ける日なんて雨が当たり前、道端で喧嘩してるカップルに巻き込まれたり、自転車が盗まれたりなんて両手の指では数え切れないくらい経験した。

 更に、人生で二度ほど、命の危機なんてものに直面したことだってある。

 一度目は産まれてすぐ。二度目は小学校の時に交通事故。助かったのは幸運だった、なんてふざけたことを抜かしやがる大人もいるが、そもそもそんな状況に陥ってしまうこと自体が不幸だと言っているのだ。

 しかも、不幸だからって漫画やアニメのように、ラッキースケベに遭遇したり右手に不思議な力が宿ったりしてるわけでもない。そもそもラッキースケベが起こるほどの交友関係を持っていない。

 何故なら、俺は今年の四月の入学式の日、季節外れのインフルエンザにやられて登校することすら許されず、見事に友達を作るタイミングを逸したのだ。おまけにいつの間にか図書委員をやらされることになって。

 華麗に入学ぼっちデビューを果たした俺は、一人で登校して授業を受けて、一人で昼飯食って放課後になれば駒鳥と一緒に図書室へ。そこにちょっとの、いやかなりの不幸を添えて。

 年が明けたばかりの一月現在まで、図書委員の当番の日は、毎日のようにそんな日々を繰り返していた。

 お陰様で駒鳥とは相当仲良くなれた気がするし、ちゃんと友達と言い合える仲であるとは思うけど、俺だって同性の友達が一人くらい欲しい。だと言うのに襲いくる不幸のせいで、未だ友達は駒鳥のみ。

 本当、ツイてない。


「椿くん? どうかしましたか?」


 知らずため息が漏れてしまっていた。それを駒鳥に聞かれたようで、心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。

 落ちて来た本の片付けも終え、図書室内を軽く掃除し、あとは完全下校時刻を待つだけとなった。そうなれば俺たち図書委員は、基本的に受付カウンターで座っているだけだ。

 駒鳥は膝の上で広げている、自身が所属する文芸部の、過去の部誌を読んでいた。どうやら、俺のため息のせいで読書を中断させてしまったらしい。


「いや、俺って本当、ツイてねぇよなぁって思ってさ」


 こんな事を駒鳥に言っても仕方ないとは分かっているが、それでも口に出してしまった。駒鳥どころか、俺だってこんなのどうしようもないのだ。俺がどれだけ綿密で慎重な予定を立てたとしても、なにかしらの外的要因で全てパーになってしまう。世界や神様を恨んだ所で、それで何かが変わるわけでもない。


「せめて人並みの運があれば、もうちょいマシな青春が送れたかもって思うと、なんか悲しくなってくる」

「青春……あの、三年生の先輩みたいにですか?」


 問いに頷きで返すと、駒鳥はなぜか難しそうに眉を寄せる。

 駒鳥の言っている三年の先輩とは、この学校で一番有名と言っても過言ではない、白雪小梅先輩のことだ。

 定期考査は学年一位から落ちたことなく、所属していた陸上の大会で全国に出場。おまけにめちゃくちゃ美人で170センチを超えるモデル顔負けの体型、人当たりも良く友達もめっちゃいる。リア充の中のリア充。あの人以上に青春を謳歌している生徒なんて、この学校にはいないのではなかろうか。


「まあ、あの人みたいなのはさすがに望まないけどさ」


 今日も休み時間の時、おそらくは友人であろう人達と、楽しそうにお喋りしながら廊下を歩いているのを目撃した。

 あんなレベルになると、もう毎日が楽しくて仕方ないことだろう。


「それでも、もうちょっとこう、なんて言うか、帰り道に友達とゲーセン寄ったり、そのままラーメン食いに行ったり、そう言う人並みの青春が欲しかったってわけ」


 俺がゲーセンに行こうものなら、もれなく不良に絡まれ同行してるやつに迷惑をかけるだろうし、ラーメン屋になんか行ったら、最悪ラーメンを服にぶっかけられる可能性だってある。て言うかこれまでに何回も経験済みだ。両方とも。まあ、ゲーセンは一人で行ったんだけど。

 肩を竦めて、なるべく明るく戯けた風に言ったのだが、どうしてか駒鳥からはなんの反応もなく。不思議に思い顔を隣に向ければ、膝上に置いていた本で顔の半分を隠し、ボソリと呟いた。


「わ、私は、椿くんとこうしてるのも、青春だと思いますけど……」


 言葉尻はもはや蚊の鳴くような声になってしまっていて、一言発するごとに上へと動く桜の花の表紙は、ついに駒鳥の顔を全て隠してしまった。


「そ、そっか……」

「はい……」

「うん、ありがと……」

「はい……」


 顔が熱い。心臓の鼓動が、なぜだか妙に早くて煩い。

 駒鳥の言う通り、友達と放課後に二人で過ごすと言うのは、たしかに青春って感じがするけど。彼女の今の言葉には、それ以上の意味が含まれているような気がして。

 いや、勘違いするな。駒鳥は俺にとって唯一無二の友人だ。だから、彼女が気を遣ってくれているだけかもしれない。ここで間違えてしまえば、不幸なんて一言では片付けられない大惨事になってしまう。

 けれど、気を遣ってくれてるとか、それだけでは説明しきれない部分も、あるわけで。

 気まずいわけではないけど気恥ずかしい空間の中、お互い無言の時間が過ぎる。駒鳥は未だ、顔を部誌で隠したままだ。

 図書室の扉やドアは防音が完璧なのか、外の音は全く聞こえてこない。聞こえるのは空調の作動音か、俺や駒鳥が身じろぎした際の衣摺れの音か。

 そんな静寂を破ったのは、図書室内にも大きく響き渡るチャイムの音だった。壁の時計を見れば、既に完全下校時刻。

 ようやく部誌を持った腕を下ろした駒鳥の顔は、少しだけ赤くなっているように見えた。


「か、帰りましょうか」

「そうだな」


 帰り支度を済ませ、奥の部屋にいた司書の先生に挨拶をして図書室を出る。今日掃除した時にまとめたゴミ袋も持って。帰る前に、こいつを捨てに行かなければならない。

 二人で第二校舎一階の図書室から第一校舎二階の昇降口へ向かい、靴を履き替えて俺はゴミ捨て場へ、駒鳥はこのまま帰宅だ。ゴミを捨てに行く程度、わざわざ女子の手を煩わせるわけにはいかないと、数ヶ月前に決めたこと。


「じゃあ、また明日な」

「はい。また明日、です」


 柔らかな印象を与える目尻を下げて、駒鳥が手を振ってくる。それに軽く手を挙げて返し、校舎裏にあるゴミ捨て場へと足を向けた。

 目的地へ向かう途中、なんとなしに考えてみる。今日の駒鳥の言葉の意味を。

 万が一。億が一にも。あの言葉が俺の想像通りの意味を持ってるのだとしたら。あぁ、それほど嬉しいことはない。彼女のことは大切な友達だと思ってはいるけど、俺だって思春期の健全な男子高校生だ。

 正直、駒鳥はどうしてモテないのか不思議なくらい可愛い。全体的な雰囲気は柔らかく優しげで、一挙一動が小動物っぽくて、男の庇護欲を駆り立てる。

 白状してしまえば、そんな可愛い駒鳥と、毎日のように二人図書室で過ごしていることは、あまつさえ友達になんてなれたことは、役得だと思ったことすらある。

 だから、もし仮に。そうなってしまったら。

 そこまで考えたところで、不意に吹き抜けた寒風に身を震わせた。同時に気づく。持っていた荷物。つまりゴミ袋が、さっきよりも軽くなっていることに。


「……マジか」


 後ろを振り返れば、足跡のように零れ落ちたゴミの数々。袋は底が破れてしまっていて、どうやらそこから落ちていたらしい。


「ツイてねぇなぁ……」


 呟いて、落ちたゴミを拾うべく来た道を戻る。お陰で纏まりかけていた思考は全て霧散してしまった。

 幸いにして事務室が近くにあったので、新しいゴミ袋を一枚貰い、破けたゴミ袋をそれで覆うことで対処した。これまでゴミ捨てだけは俺の不幸が発揮されない、ある種神聖な儀式と呼んでも過言ではない行いだったのに。まさか、ついにここまで不幸に侵食されてしまったとは。嘆くべきか、呆れるべきか。

 そしてようやく辿り着いたゴミ捨て場。あとはここにゴミを捨てて帰るだけだ。家にさえ帰れば、外にいる時ほど不幸に見舞われることもない。タンスの角に小指ぶつけたりはするけど。

 しかし、俺がゴミを捨てることは、出来なかった。

 一人の少女が、そこで泣いていたから。


「ひっ……ひっく……」


 嗚咽を上げる少女は俺に背中を向けていて、果たして誰なのかは分からない。いや、そもそも俺は知り合い自体が少ないから、顔を見ても誰かは分からないかもしれないが。

 分かることと言えば、俺よりも高い身長と、肩甲骨の辺りまで伸ばした艶やかな黒髪くらい。

 やはり今日はいつもよりツイていない。まさか、ゴミ袋が破けた挙句にこんな場面にまで遭遇してしまうとは。

 しかし、どうしたものか。さすがの俺も、この場面に出くわしたのが不幸だからと言って、泣いてる女の子を放ったらかしにするほど腐ってはいない。

 どう声をかけたものかと迷っていると、背後にいる俺の気配に気づいたのか、少女が振り向き、ついにその顔を露わにした。


「ぁ……」


 涙を流しか細い声を上げたのは、先程まさしく話題に上がっていた人物。

 三年の、白雪小梅先輩だった。

 一見キツい印象を与えそうな切れ長の目からは雫を流し、紅潮した頬を濡らしている。たまに見かける時に浮かべている活発な笑顔は見る影もなく、その表情は悲哀に歪められていた。


 ──不覚にも、美しいと思ってしまった。


 長くないこの人生の中で、こんなにも美しく綺麗なものを見たのは、初めてだった。

 腕にはなにかの編み物を抱えている。恐らくはマフラーだろうか。しかし、この寒空の下で首に巻かず、わざわざ腕に抱えているのはなぜか。そんな疑問は、直ぐに消えてしまう。


「あっ、ちょっと……!」


 先輩は涙を拭うこともせず、この場から脱兎のごとく逃げ出したからだ。

 つい反射的に声を上げてしまったものの、先輩は振り返ることもなく去って行く。その際俺と肩がぶつかったのも、その勢いでゴミ袋を落としてしまい、中身がぶちまけられたのすらも気にせずに。


「さすが全国レベル……」


 一人取り残された俺の口からは、そんな訳のわからない感想しか出てこなかった。

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