第7話 エピローグ、その2――烏鷺(うろ)恭介

 1週間前に会った、あの桃井という女性患者。

 彼女は面白い人だった。


 僕の説明が気に入らないと、大抵の患者は憮然とした表情で、ただ「わかりました」と言う。なぜ怒っているのか、なにが分かっていて、なにが分からなかったのか、僕にはなにひとつ分からない。だからといってなにか説明を求めたりするようなことはない。病気のせいでツラいのは分かっているし、検査データを見れば、大体のことは分かるからだ。

 そんなわけで、僕の診察はいつだって、事務連絡のように素っ気ないものになってしまう。


 けれど彼女は違った。

 僕の説明に対して饒舌なおしゃべりとちょっぴりの嫌味――もちろん彼女はそんなふうには思っていないだろうが――を返してきた。こんなことを言うのは不謹慎かもしれないけれど面白かった。久しぶりに膀胱という”器官”ではなく”人間”を診ているような気がした。


 だが、後で、大学の事務方から怒られてしまった。


 理由は”5分ルール”を破ったからだ。それは大学病院がより多くの患者をさばくために作ったルールだった。これを破った医者にはペナルティが課せられてしまう――このルールにはそういう決まりもあったが、実際に課せられたという話は聞いたことがない。理由は簡単で、誰もこのルールを破ったことがないからだ。僕が勤めているB大学病院というところはそういうところだった。


 だから僕はここを辞めることにした。


 桃井という女性患者を診ながら、僕は、あの先輩の言葉を思い出していた。

『胃だけで生きている人間や心臓だけで生きている人間はいない。それに患者には心もある。検査の数値やエビデンスだけに頼るな。もっと広い視野で患者を診ろ』――先輩はそう言っていた。


(そうだ。まずは先輩に会いに行こう)

 僕は思った。

 お互い忙しくて、ほとんど連絡を取っていなかったから、今、どこにいるのかは分からないが、知り合いをたどっていけば、そのうち見つかるだろう。後のことはその後にでも考えればいい。


 東京の狭い空を見上げながら、僕は久しぶりにわくわくしていた。

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医者と患者とマリアナ海溝 36(みろく) @36_miroku

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