第8話 81番

あれから半年が過ぎた。一人での三時間にはもう慣れた。それでもたまに煙草が動くんじゃないかと期待して、誰もいない空間に話しかけてはみるが、反応が返ってきたことは一度もなかった。

 店長は誕生日の一ヶ月後、仕事を休職した。家庭の事情とのことだが真実はわからない。心配していたさなか、二週間後に店長はひょっこりと顔を出した。貞子のように伸びていた黒髪は、セミロングほどの長さに切られ、栗色に染めていた。おまけにパーマまであてている。若づくりは結構だが、顔のしわは隠せていないのが残念だ。だけど、目元のクマは消えていていくらかは美人に見えた。

「似合ってますよ」

 そう言うと照れたようにばしっと俺の肩をはたいてきた。でもそのあとにプリンをおごってくれたのはうれしかった。

 そんな後日談を田川さんに話す。

「いろんなことがあったんですね」

 感慨深そうに、しみじみと彼はそう言う。

「はい、充実した時間でした」

 お互いお客のいない店内を見た。田川さんはしばらく黙りこんだあと、言った。

「三上君、すみませんがちょっとお願いがあるんです」

 田川さんから頼みごとなど珍しい。何なのだろう。

「どうしたんですか?」

「土曜日の午前中に入っているシフトを代わってほしいんです」

とのことだった。理由は家の事情だという。特に用事もなかったので承諾することにした。土曜日の午前中に入っていたのはバイトの研修中のころだけだったので、懐かしさすら覚えた。

普段は見ないお客さんの接客は新鮮な気持ちを呼び起こさせる。腕の傷跡を見ながら、あの子のことをまた思い出した。あの子との時間を思い出さない日はない。またいつかはひょっこり煙草の棚を動かしてくれる。そんな日が来ることを、ひそかに期待していた。奇跡を起こして、四年越しにプレゼントを渡したのだ。奇跡の連鎖がまだあっても、罰はあたらないだろう。

十時を回ったころ、お客さんご来店の短いBGMが鳴る。

「いらっしゃいませー」

 煙草の補充をするため、入り口には背を向けながらそう言う。

「ポテトがお安くなっております、いかかでしょうか?」

 煙草を棚に入れ、店内を振り返る。入り口には小さな車いすに乗った女の子がいた。顔も腕も細く、痩せこけていた。細い腕をひっしに動かし、車いすをそのままレジの前へと進めてくる。汗をかき、息を切らして。その顔を見て思い出す。四年前にごみ箱の近くで転んだ女の子を。小学校低学年くらいだった女の子は、成長期を迎えていたのか、背は少し伸びていた。女の子はしばらく俺の顔を見続けた。まるで、幽霊でも見ているかのように、目を丸くして口はポカンとあいていた。

俺もじっと見返す。懐かしさと同時に、まるでなにか欠けていたものが埋まったような気分だ。探していた。ずっと求めていたような。そんな奇妙な感覚だ。四年ぶりのはずなのに、彼女が近くにいることに、全くと言っていいほど違和感はなく、ただそこにあったのは静かな安定感だけだった。

 彼女はたどたどしく、言葉を探すように、視線を泳がす。口を開いてはなにかを言おうとするが、何も言わないまま、口は閉じ、俯く。

俺もなにかを言おうとした。けれど何を思い浮かべても、納得のいく言葉は見つからず、同じように口がぱくぱくと金魚のようになってしまい、おかしくて噴き出してしまった。女の子も同じようにくすくすと笑う。

 しばらくお互い笑いながら、先に言葉を発したのは彼女だった。

「腕、大丈夫だった?」

そういえば、重要なことを俺は確認していなかったことを思い出す。

店長は『娘が死んだ』とは、一言も言っていなかった。

 目の前の彼女は笑顔だった。だけど声は涙声で、今にも泣き出してしまいそうだった。

俺も釣られて涙がこぼれそうになり、あわてて後ろを振り向く。奥歯をかみしめ、涙腺が緩まないように必死だった。なにかを答えようにも涙声になってしまいそうで、煙草の棚とひたすらにらめっこをする。今目の前にあるのは、あの一カ月の中で一番思い出深い番号の棚だった。ゆっくりとそれへ手を伸ばす。多分、今の自分の顔は、とてもかっこいいものではないだろう。

 そう言えばポテトが安かったんだ。財布には今いくら入っていただろう。

 そんなことを考えながら、八十一番の棚をつかみ、かたんと動かした。

 後日、女の子はある話をしてくれた。

 四年間の眠りの中で見た、おとぎ話のような、夢の話を。

                                 完





七月十二日


 娘が倒れてから五年。私も五つ年を取った。バイトの子がプレゼントをくれた。それはあの日娘が壊した時計だった。

 バイトの子は、「娘さんからです」と言った。事情はわからないが、その言葉に嘘は感じられなかった。素直に時計を受け取った。カチカチと針が動く音がする。ぎゅっとそれを抱きしめた。心の中にあった氷が溶けていくような気がした。久しぶりに誰かに笑顔を向けた。笑うのは何年ぶりだろう。


 七月十三日。


 プレゼントがうれしくて、寝ている朱里に見せてあげようかと思った。

朱里は二年ぶりに目を開けた。

私の顔を見て、私の抱える時計を見た。

 娘は、またあの日のように、してやったりと言わんばかりの笑みを浮かべた。

「ありがとう」と私は言った。娘はかすれた声で「しーらない」と言った。いつの間にか涙をこぼしていた。

 私は仕事を再び休職することにした。

 とりあえず、明日は髪を切りに行こう。




 八月一日


 なんとなく新しい髪形を見せつけるため、お店に顔を出した。バイトの子に「似合ってます」といわれた。プリンをおごってあげた。



十一月四日


 娘はもう歩けない体になってしまったが、車いすでの生活訓練を続ければ、なんとかなりそうだった。今日は自分でハンドリムを動かし、廊下を横断できるほどになった。こん睡状態の中、娘は夢を見たといった。「どんな夢?」ときくと、「ないしょ」と言った。



 十二月三日


 熱心に車いすのリハビリを続ける娘に、どこかに行きたいところはあるかときいたら、「コンビニ」と言った。「どうして?」ときくと、顔を赤くして「ないしょ」と言った。



 十二月五日


 土曜日の午前中のフリーターの人に、今度お店に行くことを伝えたら、日にちを指定してきた。どうしてだろうか。


 十二月八日


 娘をコンビニの入り口の近くまで連れていく。事故現場の近くなのにいやじゃないのかときくと「へいき」と言った。

 娘は必至でハンドリムを動かす、その後ろ姿はなんだかとても頼もしく見えた。

 レジに立っていたのは、いつものフリーターさんではなく、時計をくれたバイト君だった。

 その日の夜、娘はある長い夢の話をしてくれた。おとぎ話のような、長い長い夢の話を。



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