第15話 ところでアキハ!
「無理よ。あれは密閉空間でしか起こせない。ここは階段を通じて下のフロアと繋がっているのよ」
ここは社会的に隔離されているボッチの聖地なだけであって物理的にはリア充の巣窟とも地続きだ。七段の階段、折り返してまた七段の階段を下りれば広々としたエレベーターホールに辿り着く。
「しかしこの窓も屋上への扉も開かないのでここには風がありません。粉がどこかに流れてしまう前に火をつければ小規模の爆発なら可能かもしれませんよ」
規模は問わないけどとにかく学校で爆発を起こしたい派という特殊な立ち位置の零は反論した。するとアキハは右手の指を三本立てる。赤い議具がキラリと光る。
「粉塵爆発の発生条件は三つ。火種、酸素、可燃性の粉末。粉は何を使う気?」
「そこにライン引きの粉があるじゃありませんか」
袋から漏れてこんもりと積もった白い粉。その奥には同じ物があと三袋積まれている。
「ライン引きは炭酸カルシウムでしょ? 酸化物は燃えないわ」
「安全のため炭酸カルシウムを使用するようになったのは2007年からです」
「だから何よ」
「その穴の空いた体操マットを見るにここは処分に困った古い物が置かれているのでは? グラウンドから遠いこんな場所に現役で使う物を格納するとは思えませんし、ここにあるそれはかつて使われていた消石灰である可能性があります。理科の実験なんかでも使いますし、一応残してあるのでしょう」
零は先ほどまで力任せに暴れていたとは思えないほど冷静に周囲を観察し推論した。体操マットに穴を開けたのは零だということは見逃しているものの、他は当たっているように思える。しかし、
「消石灰は水酸化カルシウム。水酸化物も燃えないわよ」
アキハは一蹴する。この白い粉の正体がどちらであれ結局は不燃性なのだ。
「……ではこの埃はいかがでしょう?」
零の大暴れのおかげで今まで奥に眠っていた埃まで舞い散らかっている。
「そしてそのマットの中身を併用します。粉塵爆発事故の原因は繊維であることもままあります。アキハ様なら中身の素材は何かご存知でしょう?」
「ウレタン。よく燃える上に良くないガスが出るわね」
「マジかよ……!」
宙に舞い散りそうな可燃物はこの場に存在した。背理は背筋を凍らせる。──しかしアキハはまだまだ至って冷静だった。
「空気中に占める粉の濃度をどうコントロールするの? 粉が少なければ連鎖反応は起こらないし、多すぎても酸素が足りなくなる。上限も下限も結構厳しいのよ」
「…………」
零は言葉に詰まる。すかさずアキハは反論を続ける。
「それに、火種はどうするの? まさかライターなんて持ってないでしょ?」
「メガネがありますから。窓から光を集めれば」
「メガネは凹レンズ。光が集まるどころか拡散するわ」
「ワタクシ遠視なんです。だからこれは凸レンズ」
零はメガネを外してじっと眺める。
「凹レンズでも裏側に水を張れば表面張力で凸レンズになりますしね。ああ、私が近眼だったらアキハ様に深めのキスをしていただいて唾液を溜めて……」
「し、しないわよ!」
議題とは関係のないところで予想外のダメージを受けたものの、アキハはまだ立ちふさがる。
「凸レンズでもそのサイズじゃね。かけたら顔が変わるほど度が強いなら別だけどそうでもなさそうね」
「…………」
零は押し黙った。
これまでの話をまとめるとここには頼りない道具しかなく、しかも適切に機能させられるかわからない。この時点でディベートには勝利したはずだ。しかし──
「……では、試してみましょうか」
零がメガネをかけ直してニコリと微笑むと状況は一変する。
「アキハ様のおっしゃる通り、確かに難しそうです。ただ万が一ということもあります。僅かでも可能性があるなら試してみて損はないと思いますが」
「……やめなさい」
アキハの頬に汗が滴る。
「爆発は起こらないのでしょう? 何も問題はありませんよ」
「著しく可能性は低いけれど、確かに万が一ということもあるかもしれないわ。だから、みすみすそんな危険な行為を見逃せない。それに、爆発には至らなくても小火にはなるかもしれない」
「ワタクシは今、危険な行為に臨む必要があるのです。あなたを説得するために」
狂気の沙汰だ。それを大真面目にやっているのだからタチが悪い。彼女は今神に逆らっているのだ。命くらい賭ける覚悟がなければそんなことはできない。
「マットの中身をむしって、舞わせて、火をつける。その間私が呑気に待っているとでも思うの?」
「どうぞお逃げください。ワタクシは『爆発を起こす』と申し上げたのであって『アキハ様を巻き込んで』という条件は初めから付加しておりません。ちなみに火災での死因で最も多いのは有毒ガスによる中毒です」
説得してこの場を収めなければ、アキハや背理は助かっても零はここで一人で勝手に死んでしまう。だが説得は不可能だ。彼女を説き伏せるために飲まなければならない要求は、
「さあアキハ様! その男の脱退を認めてください!」
──アキハも背理も譲れないものだから。
「やめろ!」
背理は声を荒げる。しかし零はそれ以上の迫力で、
「黙っていろ無能! 貴様だけはなんとしてもここに縛りつけ、道連れにしてやるからな!」
過去最高の音量で背理の殺害予告をするのみだ。あまりの威圧感であのアキハすら絶句してしまう。ななかといい、零といい、アキハを黙らせることができるなんてかなりの強者が集まったものだ。
などと呑気に考えている場合ではない。奇しくも突如ディベートが開催されたことで、背理は自分の役割を思い出した。アキハが言葉に詰まってしまった時、流れを変えるのが転換である自分の仕事だ。
話題を爆発や火事から逸らす。説得でそれができないのなら、別の問題を持ち出して意識をそちらに向けるしかない。これは逃げだ。だが今までの人生で背理が繰り広げてきたものとは性質が違う。ただの現実逃避ではなく、発展的な逃げ。今わかりあえないなら後々わかりあえばいい。だからこの話は一旦置いておく。何か零が注目しそうな他の話題はないものか……。
──ある。この場に。背理のすぐ近くに。ヒントは直視しがたいほどたくさんもらった。
「ところでアキハ!」
殊更に強調して転換の接続詞を置く。何か考えがあるとアキハに示すため。
「……何?」
アキハは気づく。背理が何らかの策を講じようとしていることに。それが伝わればあとは簡単だ。
「キスはしたことがあるか?」
唐突な質問に空気が固まる。先に口を開いたのは零だった。
「貴様ぁぁぁぁ! アキハ様になんと下衆な質問を! ハラワタブチまけてやるからなぁぁぁ!」
零はメガネを外して窓にかざした。火を起こすつもりだ。しかしどれだけ薪をくべようが今の零ほど燃え上がることはないだろう。
「どうなんだ!? アキハ!」
背理は凶行に走る零を無視して自分が持ち出した話題に留まる。するとアキハも、
「ない!」
背理の作戦に乗る。まだオチは想像がついていないかもしれないが、背理がそこまで導けばいい。
「口と口はだろ? ほっぺたくらいならあるんじゃないか!?」
「それもない!」
「きええええええええええええええ!」
太陽光がメガネを通して凝縮される。その光が当たる体操マットにはまだ火がつかない。アキハの言うように度が弱いのか、それともこのジメジメした空間のせいで、本来の素材が持っている可燃性ほどには体操マットが反応しないのか。だが油断はできない。時間の問題かもしれない。
「聞いたか三ヶ神! 今ならファーストほっぺにチューはお前のものだ! 放火を止めればしてもらえるかもしれないぞ!」
零の手からメガネが落ちる。
「な、何ですって!?」
一転、歓喜に打ち震えて肌をツヤツヤと輝かせる。全く忙しない顔面だ。
「……しょうがないわね」
背理が用意したこの展開にイマイチ納得はいっていない様子だったが、アキハはモデルのような堂々とした歩き方で零に近づいて、──そっと右頬にキスをした。
「アキハ様……!」
ギリギリ声になったかならないかくらいの吐息80%混じりの声が漏れ、直後糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。恍惚を浮かべたその目は焦点も定めないまま天井に向けられる。
背理はその隣にしゃがみ込んで語りかける。
「落ち着いたか? 俺の件は冷静に、もう一度考えてくれないか?」
「…………」
反応はない。これはこれで会話は不可能な状態だ。だがとりあえずこの場は収まった。作戦成功だ。
「なんか他になかったの?」
アキハは不満げだ。少し頬を赤らめている。
「すまん、思いつかなかった。でもこれで解決だろ」
「正気を取り戻したらまたやるんじゃない?」
「アキハが奴隷をほしがってるって聞いただけで一週間も頭が働かなくなる奴だぞ? 下手すりゃこのまま一生廃人かもしれん」
「それはそれで困るんだけど」
「キスで目覚めるかも」
冗談のつもりだったが、アキハはクスリともせず冷たい目を向けた。
「……というか、何で『俺を認めれば』じゃなく『放火を止めれば』なのよ。全部解決したのに」
「あっ」
盲点だった。目の前の危険を排除するのに夢中で。思いついたなら言ってくれればよかったのに。
「つ、次は左頬にどうだ?」
「もうやだ! 今後私にキスを要求するのはいかなる状況でも禁止!」
変なルールができてしまった。
「……でも、また助けられたわ。ありがと」
アキハは目をそらして、小声でそう言った。この照れた表情を見たのは二回目だ。おそらく、まだ背理しか見たことがない。
「でもまだ終わってないぞ。この後ななかも紹介しないといけないんだよな」
「……やめてよ。考えないようにしてたのに」
転換だけではなく学校で一番のポンコツもいると知ったら零は何を燃やすのか。
乞うご期待。と、他人事なら笑うだろう。
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