第26話 再起

 目覚めの良くない朝など、もう幾度となく迎えたか分からないが、今日ほど目覚めが良くない朝も珍しいだろう。

 のたくった布団に絡まりながら、川野はぼんやりと絶望していた。酒の残り香に汚れた頭で世界を呪いながら、昨日の自分の不甲斐なさに虚しくなり、もぞもぞと身を丸める。ぐらぐらと視界が歪んでいたが、脳の中では恐ろしいほど正確に昨日の映像が繰り返し再生されていた。

 ああするしかなかった。昨夜はそう思い込みながら眠りについた。しかし今は違う。

 もったいなかったな。

 ・・・うるさい。何を考えているんだ。もっと上手く伝えられる方法があったと後悔しているんだ。黙ってろ。

 このままではだめだ。どうにかしなければ、しかしどうしたものか。起き上がろうにも力が湧かない。薄暗い部屋に押しつぶされたかのように伏せていると、自分がこの部屋の一部になったような気がした。

 ああ、今日は何をしたらいいだろうか。何も予定など無い。無意味に時間を消化するしかないだろうか。

 未来はおろか今日にも絶望しながら、川野は一人鬱々と布団に沈んでいった。




 冴えない面だな。洗面台の鏡に映る自分に毒づく。あれからうだうだと布団に沈んでいき、結局身を起こしたのは昼前になってからだった。酒が抜けてようやく動き回れるようになったはいいが、行く当てなどない為、とりあえず顔を洗って、しみったれた今日を始めようとしていたところである。

 酒を呑んだためか、顔に脂が浮いている。髪の跳ねも相まってみすぼらしい人間が映り込んでいた。払拭するために顔に水を打ちつける。洗顔フォームを顔に塗りたくり、強くこすって表情を洗っていった。歯ブラシを掴み、多めに歯磨き粉を乗せて口中を引っ掻き回す。

 顏を拭き上げ口をゆすいで、再度鏡を見る。やはり冴えない面が映り込んでいるが、さっきよりは幾らかマシだろう。自分を納得させると、洗面所を後にした。

 洗面台の排水溝から、黒い粘液の尾がニチャリと這い出て残った水滴をなぜた。

 


 昼過ぎ、川野は隣人の部屋のドアの前に立っていた。さんざん悩んだ結果であるが、やはり一日を怠惰に過ごすよりは隣人に伝えるべきことを伝えようと思い立ったからである。

 玄関のチャイムを押しながら、顔を引き締める。気張る必要はない。言うべきことを言うだけだ。ただそれだけだ。

 やがてドアの向こうから足音が聴こえた。

「はい」

 隣人はドアをガチャリと開けると、川野を無愛想に出迎えた。

「こんにちは。あの、少し話をしたいんですけど」

 沼崎は川野の顔をいつものぎょろりとした目で見つめた後、どうぞ、と言わんばかりに目線を流して部屋へと入っていった。




「なんだい、話って」

 盆に湯呑を乗せながら、沼崎は淡々と言い放った。テーブルについていた川野は問いかけに答えずに部屋を見渡していた。

 相変わらず不気味なほどに片付いている部屋だ。どこを見ても生活感が感じられない。唯一本棚だけが異様な圧迫感を放ちながら佇んでいる。

 本棚はどの段もひしめき合い、隙間がない。よく目を配ると、それらが一切関連性に欠けているのが分かった。どの段も本の背丈を合わせずに、地質学に建築学、災害の文献やゼンリン地図、医学書。はたまたオカルト雑誌など、小難しそうな専門書から、くだらない娯楽本などが無分類で屈託なく詰め込まれている。

 まるで散らかした本を無理矢理詰め込んだような印象を受けたが、その割にきっちりときれいに整頓され、埃一つ付いていない。まるで本棚全体がきれいに歪んでいるようだった。

「・・・なんだい、話って」

 向き直ると沼崎が無表情で湯呑を握っていた。早くしろ、といわんばかりに湯呑を口に運び、音をたてて啜る。

「ああ、すいません。・・・あの、沼崎さん。民間伝承とか詳しいですか?」

 川野は一切の隙も無く、図書館で得た情報と浴室で体験した出来事を自分の言葉で淡々と話した。



 全て語りきった川野は息を大きく吸い、ゆっくりと吐いた。久しぶりに人に対して長々と話をした為、肺と肩が強張っている。

 一方で沼崎はほとんど表情を崩さず、沈黙していた。話をしている時も、時折瞬きをして頭を掻くだけで視線を伏せたまま動かなかったが、語りきった今もその様子を崩そうとはしていない。

 しばしの間奇妙な空気が流れたが、やがて沼崎はゆっくりと口を開いた。

「信じがたい話だが、俺がかき集めた情報の中じゃ一番求めてるものに近いな」

「えっ?」

「俺はありとあらゆる情報を集めたんだ。地質学や水道の構造、水質汚染。精神的なものからくる幻覚や集団心理。水源荘で起こった出来事はそういうもんだと思ってたが、そんなオカルトな話だとはな。俺はそんなもの信じてないが、あんたの話はやたらとしっくりくる」

 沼崎はそう言い放つと、壁の本棚に向かった。いくつかの本を丁寧に引っ張り出すと、それらを両手に抱え、テーブルの上にドンと置いた。

「あんたも調べてくれ。その伝承に関するものが載ってるかもしれない」

 一番上の本を手に広げ、熱心に読み入る沼崎に倣い、川野もとりあえず一番上の本を取った。民俗学の本のようだが、目次だけで目眩がするほど小難しい文字が並んでいる。これを全部調べろというのか。沼崎の方を見るが、目を皿のようにして本に見入っている。

 ああ、やるしかないようだな。川野は目をこすると、文章の渦へと飛び込んでいった。



「無駄だ」

 文章に打ちのめされながら三冊目の本と格闘していた時、沼崎が頭の後ろに手を組みながら吐き捨てた。

「恐らく載ってない。その本にも。載ってたとしても無意味だ。確認ができるだけで根本的な解決にはならない」

 内心嬉しく思いながら本を畳む。久しぶりに画面上ではない実物の文章に向かったせいか、目が乾いている。

「念のために聞くが、話してくれた事は確かなんだな?」

 顔をなぜながら沼崎が尋ねる。

「・・わざわざこんな事を言いに来ると思いますか?」

 すんなりと答える。これ以上ない的確な返答だろう。

「まあそうだな。だが、あんたもおかしな奴だな」

 ふてぶてしく、しかしどこか嬉しそうに沼崎は口を曲げた。

「とにかくその情報を信じることにする。俺の方で少し当たって見よう。心当たりのある筋がある。」

 川野は安心感を覚えていた。自分でも気が触れてしまったような気がしていたが、すんなりと沼崎に話が通じた為である。もっとも、自分も沼崎もすでに気が触れているのかもしれないが。

「僕も信じたくはないんです。こんな事。でも、何かがあるような気がするんです、ここには。常識が通用しない何かが」

 ぼそりと本心から言葉が零れ出た。

「あんたが体験した妙な事も含めて考えると、随分とオカルトな話になってくるが、ともかく信じる価値はあるだろう」

 半信半疑なのは川野も同じだった。浴室での出来事は現実なのか虚構なのか、いまだにわからない。だが、こうして打ち明けることに踏み切ったのは、とある義務感に苛まれたからである。

「・・あの、ありがとうございます。信じてくれて」

「完全に信じちゃいない、トカゲの化け物が水に混じって人を殺してるなんて思いたくはないが、どうにも話が出来過ぎているから信じてみるだけだ」

 遠い目をしながら沼崎が言う。川野は隣人との奇妙な交流を噛み締めながら、心の奥底で義務感に向き合い、小さく決意した。

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