第25話 叫び

 目をこすり、ぼやけた視界を拭う。

 楽器には詳しくないが、使い込まれた手触りを感じる。愛着を持って弾いていたのだろうか。わからない。

 イズミの方を見るが、顔を伏せたまま動かない。どうしたものか迷っていたが、這い寄るようにギターの方へと向かった。

 大切なもの。いや、大切にしていたものだろう。表面にはうっすらと埃がついている。その横のエレキギターの輝きに隠れ、鈍く、小さく、光っていた。

 イズミと初めてベランダで会った時、感じたのは羨望と失意だった。もしかすると、あの時からもうイズミのバンドは崩壊しかけていたのかもしれない。自分に羨望の眼差しを向けていたのは、バンドという不安定な希望にすがっていた自身よりも、新社会人という安定した平坦な道を歩んでいた他者を羨んでいたからだろうか?

 その後、イズミと水源荘の廊下ですれ違った時に、短く会話した。あの時にイズミの目の奥に感じたのは、無力感と諦観。そして、儚さのようなものだった。

 ギラついた服に身を纏っていたが、その下には繊細で無垢な少女が隠れているような気がしていた。

 酩酊した頭でいつかと同じように毒づいた。酷く独りよがりな妄想だな。特別親しくもない異性に対して。随分と気持ちの悪い人間だ、自分は。

 這い寄った姿勢のまま、まるで許しを請うように項垂れた。前頭部がジンジンと唸っている。急に動いたせいか、血が身体を巡っているのが分かった。

 目をしばたたかせて、頭を上げた。アコースティックギターの弦が目につく。無意識に手が出て、一本の弦を弾いた。鈍く、音色になりきれない音が小さく響いた。

「何やってんの・・」

 不意に耳元で声がした。それと同時に首を抱きすくめられた。振り向こうとしても、振り向くことが出来ない。アルコールが混じった甘い息が漂う。

「あ、えっと、すみません・・・・」

 動くことが出来ないまま、とりあえず謝罪をする。いつのまにかイズミは意識を取り戻していたようだ。酩酊していたせいで背後に気が付かなかった。

 どうしたらいいものか、情けないことに分からなかった。ただただ心臓が高鳴るだけで、答えが出せない。考えようとしても、頭は先ほどよりも倍以上にジンジンと唸っていて、上手く回転しようとしない。

 背中にイズミの体温を感じる。心臓の鼓動が伝わるのではないかと思い、振り払いたくなるが、体重を預けられてしまっているので、振り払うこともできない。どうしたらいい。次の手は何だというんだ。思い切るべきなのか、そんな度胸など持ち合わせてはいない。

「・・それさ、あたしが初めて弾いたギターなんだ」

 ぐずぐずと悩んでいると、イズミが言葉を発した。助かったのか、いや助かってなどいない。体勢は変わらないままだ。

「もらった時は馬鹿みたいに弾いて夢見てたのにな・・」

 ため息を吐くようにイズミが言う。再び甘い酒の匂いが鼻先に漂う。

「あたしの歌を世界に聴かせてやるんだ、って思ってたのに、結局バンドじゃ歌えないままだったし、客寄せパンダみたいな恰好でギター弾いて、気がついたらクソみたいな理由で解散してさ・・・。あの頃のあたしが見たらガッカリするかな・・・」

 酒のべたついた甘さに混じって、虚しさが漂う。それを吸い込んだ川野は虚しさが伝染したかのように、自身の事を振り返っていた。

 ”あの頃の自分”、青い自分は未だに心のどこかに潜み、時折顔を出しては今の自分を詰る。その度に現状に絶望しながらも、無表情でやり過ごしてきた。

 イズミはベランダで失意に濡れていた時、最後に自分に向かって”若いね、君”、そう言った。

 違う。若くなどない。年齢など関係ない。今の自分は老いぼれたも同然なのだ。諦めた者。動こうともせず、ただ時間が過ぎるのを待っている者。それが自分なのだ。

 川野はゆっくりと身をよじった。目の前の壁に、ギターに並ぶようにしてもたれる。イズミは体重を預けたままぴたりとくっついてきた。川野の首に手をまわしたままで、鼻先が触れそうになるほどに顔を近付けてくる。

「イズミさん」

 義務感に苛まれ、川野は発する言葉を決めた。

「・・・何?」

 イズミの唇が僅かに開いた。しおれて光を失った瞳が何かを欲しているように見えた。

「・・・イズミさんは自分の歌声をまだ世界に聴かせていないんじゃないですか?」

 イズミの目の色が変わるのを感じた。

「踏み出す前に諦めるのは・・・やめた方がいいです。自分みたいにならないでください。イズミさんにはまだ、可能性がある。・・・そう思います」

 言い切ったものの、目を見ることが出来ない。慣れない言葉を吐いたせいで、脳が気恥ずかしさのあまり焼き付くようだ。

 沈黙が訪れた。いや、実際には一瞬だったのかもしれない。しかし川野にとっては永い瞬間だった。

「あんたに何が分かんの?」

 尖った声が耳に刺さった。イズミの目を見ると、瞳は怒りと悲しみに潤んでいた。唇が震えている。歪んだ表情に、爆発寸前の気配を感じた。

「あんたにっ、何が分かるんだよっ。何にも知らないくせにっ」

 首にまわされていた両手は、川野の頭の横をかすめて壁に強く押し付けられた。

「あんたにっ、・・・・あたしの何が分かるっ!!!」

 顔の前で逃げ場もなく怒鳴りつけられ、ただただ怯むしか術がなかった。真っ向から浴びせられた言葉は、川野の中途半端な言葉をかき消してしまった。

「・・・・・出てけよ、意気地なし」

 怒鳴った後に顔を伏せたままイズミはそう吐き捨てると、興味を無くした様に川野から離れた。元いた位置に戻ると、袋の中から缶チューハイを漁り、またやけ酒に耽りだした。

 川野はしばらくの間動けないでいたが、やがてよろりと立ち上がると、無言で部屋を後にした。

 



 一人部屋に帰ってきた川野は布団に倒れこみ、後悔の念に押しつぶされていた。

 心のどこかで青い自分がケタケタと笑っている。チャンスを失ったな。そう笑う青い自分に、何がチャンスだ、と言い返す。

 あれでよかったのだろうか?答えなど出なかった。しかし、自分にはあの言葉をかけることしかできなかった。そうするしかなかったのだ。

 布団に顔を押し付け、世界を暗くする。ぐるぐると首筋に血が巡っているのが分かる。

 イズミはこれからどうなるだろうか。失意にしおれて弱り切っていると、この水源荘では危険だ。

 ・・・何を考えているんだ。あれは現実じゃない。この期に及んでまだくだらない妄想をしているのか。

 自分が嫌になり、考えるのをやめて布団に身をゆだねた。身を丸めて、現実から暗闇へと逃げ込もうと、目をつぶる。

 ごちゃごちゃと考えたところで、そのすべてに答えなどでないのだ。諦めればいい。そう、いつものように諦めればいいのだ。

 部屋の隅で情けなく身を丸めた川野を、窓から差し込んできた夜の始まりを告げる暗い光がうっすらと包んだ。

 

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