第24話 揺らぎ
いくらなんでも考え過ぎだ。先ほどからそんな言葉が頭の中に渦巻いている。
あんなものはそこいらの御伽話と同列だ。ただの民間伝承。真偽のほども定かではない、埃を被った情報に過ぎない。
無理矢理自分を納得させようとしていたが、どうにも点と点が交わっているような気がした。自分が体験したあの出来事。沼崎から聞いた話。そしてこの異喪裏伝承。
座り込んで考えていたが、信じたところでどうなる、と投げ出し、本を閉じた。埃を吐き出した本を元の棚に戻す。もうここに用はない。帰るとしよう。
出口を目指して歩いていくと、ふと尿意を催した。出口のすぐ近くにあったトイレに入り、小便器に向かう。用を足していると、目の前の張り紙が目に付いた。
きれいごとが並べ立ててある。対照的に便器や壁は古ぼけていて薄汚れている。薄暗い照明と色合いも相まって、脳裏にあの時の浴室が蘇った。
やめろ、考えるな。さっさと用を済ますと、手洗い器の蛇口をひねる。水カビに煤けた蛇口から水が溢れる。拳を握りこむと、力を入れたまま水にさらした。
拳が濡れていく。やれるものならやってみろ。そう念じる。腕が筋張り、血管が浮いていった。手のひらに爪が食い込み、痛みがじわじわと伝わる。やってみろ、やれるものなら。
数十秒経過したのち、腕の筋肉が悲鳴を上げて拳を開いた。手のひらで水を受け、流れを弄ぶ。ただの水だ。そう、ただの水なんだ。
手を洗うと、すぐに外へと出た。スマートフォンの画面で時刻を確認すると、まだ午前十一時にもなっていない。図書館ではさっぱり時間は潰せなかったようだ。
突っ立っていても仕方がない。当てもなく歩を進めた。街をとぼとぼと歩きながら、なにか休日を潰す当てはないか考えを巡らせていたが、いい案は浮かばない。
わけもなく、通ったことのない道を選ぶが、見渡す限り平々凡々な街並みが現れては消えていく。こんなものだ。すっかり暴いた街の様相は、どこへ行っても変わらない。
真新しくもなく、古くもない家に、錆びたフェンス。遠くに見えるのはどこにでもあるチェーン店の看板。すれ違う人々は、想像通りの人生を歩んでいるように見える。電柱の上には鳩とカラスが鳴きもせずにとまっている。
まるで自分の人生がここで完結しているようだった。ため息を吐こうとして呑み込む。なぜ呑み込んだのかはわからなかったが、心のどこかでこの状況を打破したかったのかもしれない。
「キャハハハッ」
甲高い笑い声が耳についた。声の方を向くと、公園の中で子供達が遊んでいる。
こんなところに公園があったのか。見たことのない場所だった。公園とはいっても住宅地の一角に造ってあるようで、狭い土地に遊具が窮屈そうに並んでいる。
声の主である子供達は公園の中央にたむろしていた。なにかお目当ての物があるのか、楽しそうにモニュメントらしき石柱を囲んでいる。
一体何があるのだろうか。歩きながら横目に見ていると、突如、モニュメントから水が勢いよく噴出した。天に向かって噴出した水は放射状に散らばり、子供達は歓声を上げて身に浴びている。どうやら囲んでいたモニュメントは噴水だったようだ。
川野はその光景が目に映った瞬間、立ち止まってしまった。水しぶきの音と、子供達の歓声が遠く聴こえる。子供達の髪が濡れてきらめき、霧の残り香のようなもやが公園の中空に溶けていく。
その水は———。
はしゃいでいた子供達の内の一人と目が合った。幼い少年は無垢な瞳で川野を見つめた。
疑うことを知らない澄んだ視線に耐えられず、我に返った川野は足早にその場を去った。何を考えているんだ。水に何もできやしない。おかしいのは自分の方だ。狂っているのは自分の方だ。
下を向き、歩を早める。自分でおかしいと自覚しているのに、なぜかあの噴き出る水を見た瞬間、わずかに高揚感を覚えていた。
自己嫌悪に陥りながら鬱々と歩いていると、知っている道に出た。足早に歩いた為か、もう家の近くまで辿り着いてしまったようだ。
再びスマートフォンの画面を確認するが、時刻は恐ろしいほど進んでいなかった。もうここまで来てしまっては、今更街中にに行くのもためらわれる。うろうろと悩んでいたが、しょうがなく近くのコンビニへと向かうことにした。いつもの弁当でも買って部屋に戻り、今日を終わらせよう。
いつもの店員の覇気のない挨拶に歓迎されて店内に入ると、いつもの棚に向かう。ラインナップは何も変わっていなかった。いつもの弁当もまだ昼前だからか、平積みにされている。
一番上の物をとると、すぐにレジへと向かった。目に付くものがあっても、買えるような状況ではない。安酒でも煽ろうと思ったが、昼間から酒を呑むのはあまりにも惨めな為、ためらわれた。
さっさと会計を済ませ、外に出た瞬間だった。知った顔がすれ違いざまにコンビニへと入っていった。
思わず振り返る。イズミだ。いや、イズミだろうか?そう疑問に思うほどやつれている。いつも見かける度に着ていた毒々しいファッションではなく、くたびれたパーカーを身に着けていた。うつろな表情のまま酒のコーナーにふらりと向かったかと思うと、ドカドカとカゴにロング缶を入れている。
酒だけにしか用がないのか、そのままレジへと向かっていく。店員はいつもの味気ない対応で会計をした後、出ていくイズミの後ろ姿を嘲笑うかのようなニヤついた目線で見送った。
「あ、あの、イズミさんっ」
声をかけると、イズミは死んだような表情で反応した。
「ああ、どーも」
ぼそりと吐き落ちた声に混じっているのか、身体から漂っているのかわからないが、アルコールの香りが鼻をつく。
「あの・・・大丈夫ですか?」
「・・・どういう風に見える?」
質問で返され、言葉に詰まる。二人ともコンビニの駐車場に立ち尽くしたまま、妙な空気が流れたが、自然と二人とも息を合わせたかのように、同じタイミングで歩き出した。
どう返すべきだろうか。歩きながら冴えない頭をフル回転させるが、返し刀が見つからない。そのうち、沈黙を打ち破ったのはイズミの方だった。
「こんな時間帯から酒を呑んでるなんて、だらしない女、って思ってる?」
「えっ?・・・いや、自分もさっき買おうかなって思ってたんです。今日はもうやることないし」
「ふうん、じゃあ一緒に呑む?」
心臓が締め付けられるような感覚が襲う。どうすればいい。どう返せば正解なんだ。この問いに。
「・・いいですよ」
自然と言葉が出てきた。自分でも何を言ってんだ、と後悔していたが、胸にはそれと同量の高揚感も溢れていた。
「はは、アンタもダメ人間だね」
イズミは初めて小さく笑った。目は死んだままだったが、口元の笑みは明らかに自嘲にまみれていた。
一体いくつのロング缶を開けたのだろうか。川野はイズミの部屋で座り込んだまま酩酊していた。女子の部屋に入って酒を呑むという、今までの人生でほとんどない貴重なイベントだというのに、目の前がちらつく。今何時なのだろう。確認しようとしてポケットにうまく手が入らない。諦めて腕を放り出した。
いろいろな話をした気がする。ほとんど酩酊していたが、ずっと聴こえていたのは、イズミの口から発せられる世界に対する恨み言だった。イズミは時折挟まれる泣き言を缶チューハイで流し込みながら、延々と恨み言を吐いていた。
うまく聴き取れなかったり、内容が飛んでいて全貌が理解できなかった部分もあるが、どうやらイズミの所属していたバンドは悲痛な最期を迎えたらしい。最期の時を話すイズミの眼は悲壮に滲み、潤んでいた。その眼を見るだけで、イズミがどれほどの思いをしているのかは推し量ることが出来た。
それを深く追求しようとはしなかった。断片的に聴こえてくる言葉から、解散の理由は芳しくないものであることが伺えたし、追求すれば下世話な人間と思われそうだったからである。それでなくとも、言葉を挟む隙も無くイズミが喋っていた為でもある。
女が喋っている時は、男は静かに聴いてやるものだ。どこかでそんな言葉を聞いた気がするな、と酩酊した頭でぼんやりと思い出していた。まあ、どうせ上手く喋れはしないのだから、と自嘲しつつイズミの方を見遣ると、いつの間にか喋り疲れたのか、酩酊しているのか、体育座りの姿勢で顔を伏せていた。
奇妙な空気が部屋に流れた。夕焼けのオレンジ色がわずかに部屋に差し込んでいたが、まるで深い夜の中に迷い込んだような静けさが漂っていた。
部屋を見渡す。空き缶やビニール袋で散らかり、黒とピンクで構成されたパンクな雰囲気の部屋である。バンド女子の部屋というのはこういうものなのだろうか。わからない。壁に立てかけてある毒々しい見た目のエレキギターが、黒とショッキングピンク色の瘴気を放っている。
ふと、その後ろに隠れるように立てかけてあったギターが目に留まった。素朴なアコースティックギターである。使い込まれていたのか、年季が入っているように思えた。毒にまみれた部屋の中で唯一素朴な印象を与えたそれは、川野にひとつの考えを抱かせた。
このアコースティックギターは、イズミの本来の姿なのではないだろうか。
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