第20話 記録

 ”かつての水郷 杜の大井戸を閉鎖へ”

 ”〇〇県〇〇市内に残されていた杜の大井戸を知っている人は一体どれだけいるのだろうか。

 今となっては古井戸に縄が掛けられ、井戸としての機能は果たされていないが、かつては街の観光スポットでもあった。歴史は長く、戦前の時代まで遡る。

 〇〇市は古くから水の豊かな水源郷として知られていた。その大元がこの杜の大井戸であり、建立は江戸時代の天保元年。当時、豊水藩が行った新田開発に際して清水淡舟の手により、産声を上げた。建立された井戸は大河のような水脈を引き当て、無限に湧き出す水は新田に引き込まれていった。新田は栄え、移り住む人間も増えていき、やがて立派な街の様相となった。ひとつの井戸から文字通り、土地を潤したのである。

 人々はこの水源を杜の大井戸と名付け親しんだ。

 やがて戦争の時代となり、1942年。第二次世界大戦末期にアメリカ軍が行った空襲がこの街を襲った時も、杜の大井戸は街を救った。街の中心部が壊滅し、水道設備の機能が麻痺した際に、人々はこの無限に湧く水を利用した。空襲により、疲弊しきった人々の喉を潤し、身体を洗う水となった。街の人々は活気を取り戻し、ひとつの水源は戦後の暗く冷たい時代を生き抜く糧にもなったのである。

 人々は杜の大井戸を祀り、建屋を造り注連縄を掛けて崇めた。

 時は流れ、高度経済成長期。暗雲は立ちこめ始める。土地の開発は進み、かつて水田だった土地は住宅街やビルで埋め尽くされていった。水田は消滅し、道路工事のために水は追いやられ、用水路となった。汚い排水が流れ、街を救った水には油が浮きだす。

 それに呼応するかのように、杜の大井戸はこの頃から何故か水が湧きださなくなった。大河のように湧いた水は鳴りを潜め、本来の井戸のように組み上げ式となった。

 だが人々は井戸の存在を忘れなかった。杜の大井戸は観光スポットとして細々と栄えた。周囲が住宅街に囲まれ、団地に見降ろされながらも、人々は井戸を崇めてきた。

 そして今、時代は変わり、現代である。とうとう人々は井戸の存在を忘れたのだろう。杜の大井戸は閉鎖される。土地は開発の餌食となった。

 歴史には刻まれている。○○県人物史(1979)にはこのひとつの井戸が辿ってきた歴史が記されてある。だが、はるか昔からこの街の人々を幾度となく救ってきた井戸の存在は、果たして現代の人々に知られているのだろうか。”

 

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