第19話 喪失
眠い。視界が明るい。朝だ。一体何時だ。
かぶっていた布団から顔を出し、時計を探す。ひっくり返っていた目覚まし時計を手繰り寄せて確認すると、デジタル表示で六時過ぎを示していた。
くそっ、またか。目覚まし時計を床に転がして突っ伏した。寝ぼけた頭で毒づきながら、今度は手探りでスマートフォンを探す。
なぜだか、ここ最近妙に早く起床するようになった。寝る時間も遅く、仕事で疲れているはずなのに自然と眼が覚めてしまう。二度寝をしようとしても、なぜか眠りに落ちることが出来ない。
ようやくスマートフォンを見つけると、適当なウェブのページを開いた。もはや毎朝の習慣のようになっている。二度寝できないが、かといってけだるい身体を起こすのも気が滅入るため、本来の起床時間までスマートフォンをいじることで時間を潰すしかやることがない。
寝ぼけた視界で小さな画面を眺める。めぼしい情報など無い。くだらないものを見るのに疲れてページを閉じた。乾いた目でぼんやりとホーム画面を眺めていると、今日がゴミ出しの日であることに気が付いた。
ああ、そういえば先週出しそびれていた袋があったな。けだるいが、これ以上キッチンに異臭を漂わせるわけにはいかない。布団を纏いながらぐったりと起き上がると、川野は一日を始めるために眼をこすって動き出した。
ゴミの袋を両手に持ち、階段を降りていく。早朝とあって誰ともすれ違わなかった。水源荘は不気味なほど静まり返っている。朝の空気は澄んでおらず、じっとりと湿気ていた。街の喧騒もいつもより遠く小さく聴こえる。
水源荘を出るとすぐ近くのゴミ捨て場へと向かった。先客はどうやらほとんどいないようで、ゴミ袋はいくつかしか見当たらない。金網の蓋を開けてゴミ袋を放り込むと、隣の箱の袋が目に付いた。
空き缶の袋のようだが、中の缶はほとんどがアルコール度数の強い缶チューハイだった。五百ミリリットルのロング缶がパンパンに詰め込まれている。ゴミの持ち主は相当な酒豪なのだろうか。こんなに飲んでは健康にも悪いだろうに。
金網の蓋を閉じようとして、ふと違和感を感じた。金網の蓋を掴んだまま、空き缶の袋を見る。・・・違和感?いや、違う。感じているのは既視感だ。空き缶の袋に見たことがある断片が紛れ込んでいる気がする。袋の中の凹んだ空き缶を凝視する。その中のひとつ、缶の口に何かが付着していた。黒い粉のような・・・。
”はは、・・若いね、君”
脳裏にいつかのベランダが蘇ると同時に、既視感の正体をようやく暴いた。イズミだ。あの時イズミが飲んでいた缶チューハイと同じ銘柄だ。煙草をねじ込んだ後もある。ということはこのゴミはイズミが出したのだろうか。
あの時から一週間ほど経っているが、まさかこの量の缶チューハイを飲んだのだろうか。だいぶ弱々しく見えていたが、現実から目を背けるためにやけになって酒を煽っているのだろうか。心配になる。水源荘で弱っていたら水場に——。
「あんた、何を見てるんだ」
「えっ」
不意に声を掛けられて金網を手から離した。ガシャンと騒々しい音をたてて蓋が閉まる。慌てて振り向くと、沼崎がゴミ袋を手に持って背後に立っていた。相変わらず毛玉だらけのよれよれのスウェット姿で、目をぎょろりとさせている。
「ああ、いや、何でもないです。どうぞ」
気まずさを感じながらゴミ捨て場から退いた。沼崎は怪訝な顔を川野に向けた後、ゴミ袋を放り込んだ。
どうしてこの男が現れるときはこうも気まずい状況になるのだろうか。タイミングが悪いというか、その瞬間を狙って姿を見せているのではないかと疑ってしまう。
「あんた、あれから大丈夫なのかい」
金網に蓋をしながら、沼崎は背中から質問してきた。
「ああ、体調の方は大丈夫です」
何気なく返事をしたが、沼崎は不服そうな表情で振り返りながら口を開いた。
「そうかい、あれから水に妙なことはされてないのか」
なんだ、この物言いは。まるで何かを期待していたかのようではないか。腹が立ったが、怒りよりも先に純粋な疑問が口をついて出た。
「・・・沼崎さんはどうしてそこまで水に固執しているんですか?」
一体何がこの男を不気味なほどに突き動かしているのか。それだけが腑に落ちない。はっきりいって異常としか思えないが、沼崎の見開いた目には何か信念のようなものが見て取れる。
沼崎は数瞬の沈黙の後、重々しく、だが無表情で口を開いた。
「・・・水源荘で死んだ人間の中に、俺が見つけて死亡を確認したやつがいるって言ったな。・・・それは俺の母親だ」
川野は突如として出た言葉に驚きを隠せないでいた。何気ない一言が他人の暗部に届いてしまったようで動揺していると、沼崎は口調を変えないまま淡々と続けた。
「死ぬ少し前、母親は皿を洗っていると水に撫でられているような気がするって言っていた。俺は年を取って弱ってきた老人の戯言だと思って相手にしなかった。それからしばらくしてだ。母親が血を吐いて死んだのは」
沼崎は無表情のままだったが、いつもぎょろりと見開いていた目は光が消えて焦点が合っていない様子だった。
「俺が水源荘に何かあると思い込んでいるのは、そういうことさ」
そう自嘲気味に言い捨てると、沼崎はつかつかと水源荘の方へと歩いて行った。その場に取り残された川野は、何も言葉にできないまま立ち尽くすしかなかった。
沼崎の影がようやく水源荘へと消えていった後、深く息を吐いた。他人の暗部に容易に踏み入れてしまったことを後悔しながら、自分も水源荘へと戻る。
歩きながら、階段を上りながら、考える。今まで、沼崎の事は半分異常者として見てきたが、もうその半分は親を亡くしたやりきれなさに囚われた悲しい人間なのではないか。部屋に戻り、靴を脱いでからふと振り返った。無機質な金属のドアの前に、越してきたばかりの頃に来た母親の姿を重ねる。あの時自分はもの悲しくなっていた。ただ、しばしの間会っていない母親が目の前から消えただけで。
それが一生の別れとなったらどれだけの悲しみが訪れるのだろうか。
スマートフォンを開いて電話帳を眺めた。もうしばらく家族の声を聴いていない。画面上に映る家族の連絡先に指が触れようとして、思いとどまった。
朝から憂鬱な気分になっている。これが五月病なのだろうか。やめよう。これでは孤独に負けて呑まれているではないか。倒れた時でさえ、家族には連絡していない。独り立ちしたのだから、家族に甘んじるわけにはいかない。頼ってなるものか。
画面から電話帳を消して時間を確認する。まだ少し支度するには余裕がある。いつものように時間を潰すとしよう。布団の上に戻り、検索アプリを意味もなく開くと、何か調べるワードを探す。そういえば、昨日の夜、寝入りばなに何か調べようとしたような気がするが。
記憶を辿ろうとしたが、検索履歴に表示されたワードで全てを思い出した。
ああ、そうだ。イモリだ。
イモリを水神として祀っているところとは、一体どこなのだろう。イモリに馴染みのある自分としては、知っておきたい情報である。検索バーに”イモリ 水神”と打ち込んで、検索する。祀るということは神社か何かだろうか。考えていると、検索結果が羅列されていた。ぱらぱらと目を通していくと、その中にとある街の名前が表示されていた。思わずそれを見返す。
その街の名前は今まさに自分が住んでいる街の名前だった。
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