第18話 由来

 時刻は午後十一時。平日の夜のコンビニはかなり遅い時間だというのに、常に人が入れ替わり立ち替わり訪れている。各々が疲れた顔をしながら出来合いの食料品を買って去っていく中、川野もその群れの中に混じって半額になった海苔弁当を抱えていた。

 好みのものというわけではない。この時間帯まで半額で売れ残っている弁当が、これしかなかった。ただそれだけの理由である。

 目移りをしないようにすぐさまレジへと並んだ。本当なら他にホットスナックの一つや缶ビールでも買って帰りたいところだが、あいにく財布にそんな余裕はない。腹は飢えてはいたが、理性はきちんと働いていた。

 レジの店員と血の気のないやりとりをしながら、ふとここ最近の自分を振り返った。仕事は相変わらず理不尽に振り回されていたが、以前のように気が沈むことも無くなってきた。淡々と人前で振舞うことが板についてきたような気がしている。

「ありがとうございました」

 店員の覇気のない声が背中越しに落ちたのを聴きながら、コンビニを後にする。夜の街を五月の生ぬるい風が吹き抜けた。それを身に浴びながら、暗闇の中を歩いていく。

 板についてきた、というよりは慣れてしまったせいだと思い返した。社会人として立派に勤めを果たしている、というよりも社会という大きな機構に隷属することに違和感を感じなくなった、といったほうが正しいのかもしれない。

 この世に生きている大人の全員がそうなのだろうか?心のどこかにいつか閉じ込めたはずの青い自意識がいるのは、自分だけなのだろうか?

 この間イズミとベランダで会話して以来、なぜかそんな疑問が時折浮かぶようになった。

 人通りのない住宅街に入ると同時に、スマートフォンを開いた。久しくログインしていないSNSを立ち上げる。中学、高校、大学時代の友人たちの近況が画面に羅列されていく。親しかった者、親しくなかった者、覚えがない者。ある一人は楽しげに笑っている。ある一人は恨み言を吐いている。ある一人はしばらくログインしていないのか、沈黙している。

 しばらく情報の海をさまよったが、画面の中からは誰かの青い自意識は見つけられなかった。やはり自分だけなのだろうか?

 物思いにふけっているうちにあっという間に水源荘へと帰り着いた。いつものように階段を上がっていったが、途中の踊り場で立ち止まる。暗い街並みの向こうの空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降ってきそうだった。五月雨、といえば聞こえはいいが、じめじめとした季節がやってくることに変わりはないだろう。

 また生ぬるい風が吹いて川野の前髪を揺らした。部屋に戻ろう。階段を上って部屋へと向かい、ドアを開けた。湿っぽいぬるりとした空気がこもっている。いつも通りに真っ暗な部屋の中に向かって睨みを利かせると、口を大きく開けた怪物の中に踏み込んだ。

 手探りで電気をつけて暗闇を暴くと、肩を揺らしながら中へと入る。身支度を軽く整えてからテーブルに着き、黙々と弁当をむさぼった。底上げしていて食べ応えがない弁当をあっという間に胃袋に収めると、キッチンへと向かってコップに水を注ぐ。ひと睨みした後に喉を鳴らして飲み込むと、今度は風呂へと向かった。

 頭から熱いシャワーを浴びる。全身が温かく濡れていくが、目を見開いてシャワーヘッドを凝視した。湯が目に入り、視界が滲む。

 決して沼崎の話を信じ込んでいるわけではない。これは気の持ちようの話である。部屋にいる際、ひいては水に触れる際は気を張り詰めるようにしていた。おかげでねぐらだというのに安らぐことは出来ていないが、そうでもしないとくつろぐことが出来ない。おかしな話である。それが功を奏しているのかはわからないが、あれから妙な体験はしていない。

 気の持ちよう、所詮は気の持ちようだ。そう思い込みながら身体を洗う。ボディーソープを洗い流すためにシャワーヘッドを掴むと、背中へと向けた。

 やってみろ、殺してやる。そう念じながら湯を浴び続けた。




 いつまでこんなことを続ければいいのだろうか。布団の上で壁にもたれて考えたが、答えなど無いことに気がついて諦めた。癒しを求めて水槽へと近付く。

 水槽の中にはもうビリーしかいない。元からいたメダカ達と新しく購入したドジョウ達は、忽然と消え失せてしまった。よく見てみると、小さな巻貝たちも姿が見えない。

 ビリーは寂しいのだろうか。相変わらず表情は読めない。とぼけているのか、悟っているのか、どちらともとれない顔でじっとしている。

 もし寂しがっていたとしても、新たな生命をこの水槽に迎えいれることは考えていない。ビリーが食べてしまうからだ。恐らくは。きっとそうだからだ。

 また妙な考えが浮かぶのを感じて、電気を消した。布団に潜り込んで目を閉じるが、遅い時間だというのに眠気がない。何度か寝返りを打った後、仕方なくスマートフォンを開いた。だが、これといって見たいものなど無い。

 まあいい。いじっているうちに眠くなるだろう。暗闇の中、唯一光を放つ画面上で何の気なしにインターネットの検索アプリを開く。適当なワードを打ち込もうとするが、思い浮かぶものがない。予測変換に任せてキーボードを叩くと、イモリ、というワードが表示された。

 今までに幾度となく検索したワードだったが、懲りずに検索するとやはり見慣れたページが現れた。目新しさに欠けた画面を変えるべく、画像検索に切り替えるとイモリの画像がパラパラと表示されていく。

 画面の中のイモリ達はビリーとは違うが、それぞれに良さがあり川野の心を癒した。ひとつひとつ拡大させてスライドしていく。イモリの画像が現れては消えていき、また現れる。スライドして、スライドして、スライドして・・・。

 何か妙な既視感を感じて二つ前の画像を見直した。イモリの顔の拡大写真だ。正面から撮ったのか、見方によっては黒いカエルのようにも見える。鎌首をもたげているため、イモリと分かるが・・・。

 ・・・・・黒い鎌首?

 既視感の正体に気付いた瞬間、反射的にスマートフォンの画面を閉じて放り出した。

 ・・・あれに似ている。浴室で遭遇したあの黒い粘液の鎌首に。あれに目はなかったが。

 何をビクついているんだ。ただ似ているだけだ。あんなものを怖がる必要などない。そもそもあれが現実かどうかわからないのだから。

 もそもそとスマートフォンを手繰り寄せてもう一度画面を開いた。画像検索から元のウェブ検索に切り替える。気分を変えよう。適当なページを選んで開いた。

 どうやらイモリの飼育方法をまとめたページであるらしく、つらつらと細かく丁寧に情報が書かれてある。川野にとってはわかりきった情報だったが、ある一文が目に留まった。


 ”イモリという名前の由来は諸説あるのですが、その中のひとつを紹介します。イモリは和名では井守と書きます。これは水場に生息する習性から井戸の中に住み着くことがあったため、井戸を守る、という意味合いから井守—イモリ—と成った、という説です。実際イモリは悪さをせずに井戸の中の虫などを食べて利益をもたらすので、昔の人は親しみを込めて井守と名付けたのでしょうね。ちなみに一部の地域では、イモリを水神として祀っているところもあり、古来より愛されていた存在であることが伺えます。”

 

 知っている知識だ。だが、イモリを水神として祀っている地域があるとは知らなかった。一体どこなのだろう。検索バーに文字を打ち込もうとして、指の動きが緩慢になる。眠気のせいだ。視界がぼやけていき、四角く白い光を放つスマートフォンが手から零れ落ちた。ああ、気になったけどもう多分無理だな。寝よう、明日も仕事だし・・・。

 ゆっくりと意識が部屋の暗闇に溶けていき、川野は眠りに落ちた。持ち主が寝息を立てだした後、スマートフォンもやがてひっそりと力尽き、画面の光を消して部屋は真の闇に呑まれた。



 ————ぴちゃっ。



 水槽から小さな水音が起こった。水が跳ねたような音はやがて、にじりにじりと舌が蠢くような音に変わり、やがて奇妙な形容しがたい音に成った。

 水槽の中に蠢く音の主は暗闇の中でひとつ呼吸すると、辺りを見渡した。眼らしきものは無いようだが、鎌首をもたげて様子を伺っている。

 どれくらいの時間が経過したのだろうか。やがて鎌首は何かを諦めたのか、自身を形成している粘液を水槽の水へと馴染ませるようにじわりじわりと溶かし出し、姿をくらました。水槽はもとの日常へと姿を戻し、寝息だけが響く真の暗闇は誰も見ていなかった非日常的な事象を覆い隠した。

 部屋の中は消え失せた音の主を庇うかのように、真っ黒に塗りこめられていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る