第17話 虚勢

 安息の要塞に帰ってきた川野は一人、部屋の中央に立ち尽くしていた。一体どうしたらいいのかわからなかった。沼崎の話を鵜呑みにしたわけではない。だが、今の川野にとっては妙に説得力のある話だった為、困惑せざるを得ない。

 この水源荘に越してきてもうしばらく経つ。その間不可解なことはあったものの、特に不自由なく暮らしてきた。

 だが、今となってはもう違う。以前に孤独死したであろう人間に思いを馳せた時でさえ、この安息の要塞は崩れ落ちかけたが、もう瓦解したも同然だろう。この場を支配しているのは後ろ暗い恐怖と同棲しているという危機感だ。

 くつろごうにもくつろげなかった。背中を開けているだけで何者かに見られているような感覚が襲ってきそうになる。

 考えるのはやめよう。自分にそう言い聞かせた。何が水に近付くな、だ。今まで毎日シャワーを浴び、顔を洗い、キッチンで皿を洗ってきた。水が自分を脅かしたことなど、一度もない。ただの一度さえも。

 半ばやけになってキッチンへと向かった。母がいつしか近所の商店街で買ってきた、ダサいカエルの絵がプリントされたマグカップを食器棚から引っ掴むと、水道の蛇口を思いきり捻った。勢いよく水が出てきて、あっという間にマグカップから溢れ出る。その様をじっと睨みつけた。

 ごぼごぼととめどなく溢れる水は自分の手を派手に濡らしている。今までの人生で幾度となく体験した感触が、ただひたすら流れていく。眉間にしわを寄せて、心の中で撫でてみろ、と念じた。水如きが俺に何をするっていうんだ。その気なら何かやってみせろ。

 しばらく水と睨み合いをしていたが、一向に水は怪しい気配を見せない。びしゃびしゃと音をたてて排水溝に吸い込まれていくだけである。馬鹿馬鹿しくなって水を止めた。マグカップにはひたひたに水が張っている。息を吐きながらそれを目の前にぐいと持っていき、喉を鳴らして思いきり飲み干した。

 ———ただの水だ。口元を拭いながら再確認した。ただの偶然、疲れてみた幻覚だ。魚達はきっとビリーの胃袋の中に消えたか、水に溶けたかでもしたのだろう。そうだ。今までの不可解な出来事はきっとなんの変哲もない日常の中で起きた、くだらない偶然なのだ。

 無理矢理瓦解した安息の要塞を組み上げ直した。そうでもしないと、このままこの部屋でおちおちくつろげもしない。敷きっぱなしの布団へ向かうと、川野は部屋に帰ってきてから初めて腰を下ろした。壁にもたれて天井を仰ぐと、くすんだ壁紙を眺めながら思考を鈍らせていく。自分のねぐらですら、落ち着かない空間になるのはたくさんだ。このまま何も考えずに過ごせたらどれだけ安らげるだろうか。

 

 ガタン!


 不意に後頭部に振動が伝わり、背筋がビクンと弾けた。もたれていた壁から物音がしたせいだ。今度は一体何なんだ。脳裏に壁の中で脈打つ黒い粘液がよぎったのを振り払いながら、振り返る。耳を澄ますと、かすかに何かが聴こえてきた。正体を確かめるために、壁に耳をぴたりとつける。

 くぐもって聴こえてきたのは、泣き声と怒鳴り声が入り混じったような声だった。一語一句聴き取れはできないが、悲壮感にまみれた声が壁の向こうから聴こえてくる。この壁の向こうはイズミの部屋だ。

 なにかあったのだろうか。下世話な想像を思い浮かべていると、今度はベランダの扉を開けるカラカラという乾いた音がした。おそらく外に出たのだろう。数秒戸惑ったが、おずおずと自分もベランダに出た。

 やはりイズミは外に出ていたようで、手すりに手をついてもたれていた。相変わらず、どぎついパンクな格好で片手にはアルコール度数が相当強い缶チューハイを持っている。こちらに気付くと、イズミは頬を拭いながら振り向いた。

「ああ、ごめんね。うるさかった?」

「えっ、ああ、いや。大丈夫ですよ。・・・何かあったんですか?」

 イズミの顔はやつれているように見えた。涙を流していたのか、頬がアイシャドウに濡れている。

「・・・いや、何でもないよ。・・・あんたってさ、いくつなの?」

「えっ?ええと、二十三ですけど・・・」

「ふーん、三つ下か。普通の会社員?」

「ええと、まあそんなとこです」

「そっか・・・。あたしさ、バンドやってるんだ。全然知らないだろうけど」

 イズミは一息つくと、短く肩を震わせて続けた。

「高校の頃に結成したバンドでさ。大学に入ってもずっと同じメンバーでやってきたんだ。・・・けど、もう終わりかな」

 アイシャドウに濡れた顔で自嘲気味に笑った。いつもはギラついている目元が儚げにしおれている。

「あんたはさ、夢とか目標ってあった?」

「・・・夢ですか?・・一応ありましたけど・・・」

「やっぱそれは諦めたの?」

 イズミは煙草を取り出しながら、質問を投げかけた。それを受け取った川野は、心の奥底にうずめていたものを掘り起こされたような、やりきれない感情が湧きあがっていたが、短い沈黙の後にぽつりと呟いた。

「・・はい。自分はきれいさっぱり諦めました。高校の頃に」

 くわえた煙草に火を着けながら、イズミは川野の言葉に耳を傾ける。

「イズミさんはまだ夢を追いかけてるんですか?」

 普段はそんな言葉を発さないどころか、話しかけることすらままならないというのに、なぜか川野の口からはするりとそんな言葉がでた。

「・・見たらわかんない?あたしももう諦めようとしてるんだよ。・・・大学を卒業しても、ふらふらバイトしながらここまでやってきた。けど、もう限界なんだよ。他のみんなももう違う方を向いてるし、バンドとしてガタガタなんだ。・・・あたしだけが馬鹿みたいに夢見てあがいてるみたい」

 ため息のように口から煙を吐いたイズミは、街並みを眺めながら缶チューハイを一口飲み込んだ。失意にしおれた瞳が潤んでいるのがわかる。

「・・・自分にはイズミさんがかっこよく見えますよ。踏み出す前から諦めをつけて逃げ出した自分から見たら、憧れる姿ですけど」

 絞りだすように川野は言った。自分でもなぜこんなことを言っているのかはわからなかったが、それは限りなく川野の本心からでた言葉に違いなかった。

「はは、ありがと。・・・ごめんね、泣き言に付きあわせちゃって。」

 缶チューハイを飲み干すと、イズミはその中に煙草をねじ込んだ。いつかと全く同じ仕草だったが、今のイズミはその時よりもはるかに弱々しく見えた。

「イズミさん」

「・・何?」

「ええと、・・・こんなこと言っても説得力無いかもしれないけど、まだ諦めるには早いんじゃないですかね?」

 言った瞬間に後悔したが、イズミは短く笑った。

「はは、・・若いね、君」

 カラカラと扉を開き、部屋へと戻るイズミを見習って川野も自分の部屋へと肩を落として戻った。敷きっぱなしの布団に向かい、今度は倒れこむように突っ伏した。 

 何を言っているんだ。夢破れた落ちぶれ者の分際であんなに偉そうなことをよくものうのうと言えたものだな。恥を知れ。

 心のどこかに閉じ込めていたいつかの青い自分にそう詰られているようだった。自分でもなぜあんなことを言ったのかわからなかったが、そんな節操がない言葉を受け取ってくれたイズミに感謝していた。それと同時にそんな風に甘く考えている自分が嫌になり、布団に頭を打ちつけた。

 鈍く弱い痛みを感じながら呼吸をするべく顔を横に向けると、水槽が目に付いた。ビリーが珍しく水槽のガラスに引っ付いている。毒々しく赤いまだら模様の腹を見せつけるように身をよじり、ピクリとも動かずにいた。

「・・・なんでお前は生き残ってるんだ?」

 ふとした疑問が浮かぶ。魚たちは一匹残らず消え失せてしまったが、ビリーはなぜ消えなかったのか。

 考えようとするのをやめて、布団に身を預けた。すべてを放り出して意識を沈めながら、目を閉じる。

 殺せるものなら殺してみろ。そう部屋に向かって念じた後、睡魔がゆっくりと川野を眠りの世界へと誘った。


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