第16話 沼崎

 生物を飼育するということはその命に責任を持つことである。たとえその命がどれだけ小さな命であろうとも、それは変わらない。

 生物飼育を趣味にする人間として、それだけは心に誓ってきたことである。もちろん今まで自分の不手際により、殺めてしまった命もある。その度に涙を流し、胸を痛め、二度と同じ過ちを犯さないように努めてきた。

 だが、今直面しているこの状況は恐らく自分の不手際によるところではない。なにか得体の知れないものが、水槽の小さな命達を呑み込んでいった。そんな気がしてならない。

 命の恩人である隣人の部屋のドアの前に立ちながら、川野は疑念や恐怖ではなく怒りの感情に満ちていた。仕事で疲れて帰ってきた自分を癒してくれた小さな命達のためにも、はっきりさせなければならない。彼らは何処へ消え去ったのか。この水源荘に来てから起こる不可解な出来事の正体とは。

 いざ玄関のインターホンを押そうとして、一瞬我に返った。随分と突拍子もない考えである。確かに水槽の生き物たちは忽然と消え去り、浴室で不可解な体験をした。だが、そのどちらも決定打にかける怪異である。ただの不注意、疲れて見た幻覚で片づけることが出来る。

 いや、対面しなければならない。何より腑に落ちないのはこのドアの向こうにいる男が発した言葉だ。あの男なら何か知っているのではないか。

 決意してボタンを押し込んだ。ドアの向こうからいつか聴いたチャイムの音が聴こえる。いるだろうか、時刻はちょうど午前十時、今日は世間的には平日であるが———。

「はい」

 疑問に思う間もなく、中から足早にみしみしと音を立ててドアをガチャリと開け、隣人は目の前に現れた。昨日と同じ毛玉だらけのスウェット姿で、やはりぎょろりとして目を見開いている。いつもはひるんでしまい、情けない声であどけなく返事をしていたが、今回は違う。短く息を吸い込むと、表情をきりりと整えて口を開いた。

「こんにちは、あの、先日は大変ご迷惑をおかけしました」

 ぺこりと頭を下げるが、隣人は変わらぬ表情で佇んでいる。

「あの、昨日のことで少し聞きたいことがあるのですが」

 負けじと表情を崩さずに続けた。

「昨日、撫でられたのか?って言ってましたけど、一体どういう意味なんですか?」

 じっとガンを飛ばすように見つめ返した。隣人は眉一つ動かさなかったが、しばしの沈黙の後、口元だけでフッと短く笑った。

「あんたになら話が通じそうだな」

 謎の言葉を口にすると、男は入って来い、と言わんばかりに流し見をしながら背中を向けてしまった。自然に閉まっていくドアを片手で受け止めながら、川野は数瞬困惑したが、すぐに拳を握りしめると決意に満ちた眼を爛々と光らせながら、異質の巣窟へと踏み込んでいった。





「まあ、いろいろと長くなりそうだから、とりあえず座ってくれ」

 男は部屋の中に川野を招き入れると、そのままキッチンに向かった。なにやら支度をしているらしく、ガチャガチャと食器の音が聴こえる。

 家人より先に座ってくつろぐのに抵抗があったため、立ち尽くしたまま部屋を見渡した。自分の部屋の隣の部屋なので、合わせ鏡のように間取りが反転している。間取りだけでなく、部屋の様相もまるで反転しているようだった。

 衣服や生活品がごちゃごちゃとひしめき合っている自分の部屋と違い、どこを見ても異様に片付いている。必要最低限の家具しかなく、そのどれもが素朴な佇まいだった。その中で唯一、壁一面に並ぶ身の丈ほどもある本棚が異彩を放っている。

 中にはずらりと本が並び、どの段も一切の隙間がない。大小さまざまな背表紙はかなり古いものもあり、本ではなくファイルのようなものまで並んでいた。

 異様な本棚に圧倒されていると、盆を持った男がキッチンから出てきて声をかけた。

「座れよ、なんにもないが、とりあえずこれで勘弁してくれ」

 ようやく家人が座ったので、川野は安心して座についた。質素な木製のテーブルには、急須と湯呑、茶菓子が置かれている。

「どうも、ありがとうございます・・・」

 湯呑と茶菓子を手に取って気が付いた。この茶菓子は見覚えがある。これは昨日渡したばかりの菓子折りの中身だ。

 男の方を見ると、茶菓子をむさぼりながら茶菓子の包装されていたビニールをくしゃくしゃと丸めている。何なんだこの男は、と妙な心持になったが、なぜか川野は安心感を覚えていた。今まで異質と思い込んでいたこの男は、ただの変人の類であり、茶菓子をむさぼり食う中年だ。恐怖など微塵も感じられない。相変わらず疑念は拭えないが。

 男はくしゃくしゃにしたビニールをすぐにゴミ箱に放り込むと、湯呑の中身をぐいと一飲みにして口を開いた。

「そういや、まだ名乗ってなかったな。俺は沼崎という」

「・・はあ」

 沼崎、と名乗った男はそのまま淡々と話を続けた。

「あんた、言ったな。さっき俺がなぜ、撫でられたのか?って訊いたのか」

「はい、なぜそんな事を訊くんですか?」

「心当たりがあるからだよ。あんたが風呂場で倒れたあの日、俺は部屋にいた。壁の向こうから怒鳴り声と何かを殴りつけるような音がして、不審に思って救急車を呼びつけた。案の定あんたは倒れてたな」

「・・・はい、確かに」

「あんたその時、風呂場で何か変なものを見たんじゃないのか?」

 沼崎の顔は一切冗談を言っているようには見えなかった。大きく開かれた目からは、純粋な意欲、探求心が溢れている。

 その一方で川野は狼狽えていた。やはりあれは幻覚ではなかったのか?あの粘液に濡れたおぞましくどす黒い体験は現実に起きたことだったのか?いや、そうだとしてなぜ沼崎はそのことを知っているのか。変なもの、と沼崎は言った。あれは確かに異様なものだったが、いや、変なものと言っただけであのどす黒い粘液のことを指しているわけではないのかもしれない。

「やっぱりみたのか?何かを」

 変わらぬ口調で淡々と沼崎は追究する。あまりに沈黙していたせいだろうか。だが取り繕う気にもなれない。だからといってあの異質な存在を肯定してしまうこともためらわれる。

「ふん、まあいい。とりあえず見たとして話を進めよう」

 しびれを切らしたのか、沼崎は構わずに喋りだした。

「俺はだいぶ前からこのアパートに住んでる。あんたは最近越してきたから知らないと思うが、このアパートは必ず毎年誰かしらが水場で死ぬんだよ」

「・・・えっ?」

「水場って言ったら語弊があるが、風呂場やトイレでな。まあこのアパートは独居老人の巣窟みたいなもんだから、いわゆる孤独死ってやつだ。今の高齢化社会じゃ別に珍しいことじゃないだろう。だが毎年、必ず一人が水場で死ぬ」

「水場って、でも偶然でしょう。風呂場で死ぬ事例はかなり多いはずですよ」

 つい最近自分もそうなりかけた。きっとそうなりかけたのだ。

「そりゃそうだ。だが他にもここで死んだ人間にはある共通点がある。水場で必ず血を吐いて死ぬんだ」

「血を吐いてって・・」

「必ずな。全く同じ死に方だ」

「どうしてそんなことを知ってるんです。」

 会話をする度に、なにかほの暗い暗部のような場所に足を踏み入れていくような感覚が襲う。

「俺はこの街でいろいろな職を転々としていてな。まあボンクラみたいなもんだ。清掃業や内装業なんかも何年か勤めた。その時に気付いたんだ。このアパートで毎年死人がでていること、死に方がそっくりなことをな」

 初めて沼崎は口の端でにやりと笑った。

「その時はただの偶然だと思った。だが、ここの住人たちと世間話している時に妙な事を聴いた。最近水が怖いってな」

「水が怖い?」

「ああ、最初は弱り切った老人の戯言だと思ってた。だが、ここで死ぬ老人はなぜかそう言うんだ。全員が全員じゃないがね、ある一人はこう言ってた。最近洗い物をしていると水に撫でられるんだ、ってな」

 水に撫でられるという表現がどうにも自分の体験と似通っていて気持ちが悪い。確かにあの時、背中を水にぬらりと撫でられたようだった。その奇妙な感覚が今も思い出すだけで鮮明に蘇る。

「そう言ってた人間はその後、キッチンの流し台で血を吐いて死んだ。俺が見つけて死亡を確認したんだ。それが二年前だ。去年は三階の人間が洗濯機に突っ伏して血だらけで死んでたっていう。そして今年は一階の人間が洗面台で血を吐いて死んでいた。これは俺が独自に情報を集めているんだ。ほとんどは清掃業をやってた頃の知り合いに聞いたもんだがね」

 静かに顔から血の気が引いていく。この沼崎という男は一体何なんだ。なぜそんな情報を集めているのか。気でも触れているのだろうか。なにがこの男をここまで動かしているのだろうか。

「俺はこの水源荘になにかあると踏んでいるんだ。それが何かを知りたい。なあ、何かを見たんだろ?一体何を見たんだ?」

 言葉が詰まる。あれを肯定していいのか。あの存在を。どうすればいいのかわからない。言うべきなのか?この異様な男に。だがあの粘液のことを告げた瞬間に得体の知れない黒い世界に呑み込まれるようで恐ろしい。それこそあのギトリとしたどす黒い鎌首の口に。

「・・・いえ、何も見てませんよ。僕はヒートショックで倒れたんです」

 絞りだした言葉に沼崎はしばしの間、落胆とも疑心ともとれない表情をしていたが、やがて重々しく口を開いた。

「そうかい、まあいい。でもこれだけは言っておく。今あんたは俺を頭のおかしいやつだと思ってるだろうが、まあ聞いてくれ。ここに住むんなら弱り切ってる時に水には近づくな。」

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