第15話 決意
水源荘二〇三号室。自分にとっては安息の要塞。誰の目にも触れられることはない。だからこそくつろげる。だがいかにその要塞のど真ん中に陣取ろうとも、携帯で会社の人間と話すとなれば一切くつろげはしなかった。
「はい、はい・・・ありがとうございます、わかりました。すいませんでした、失礼します」
通話を終えた瞬間、すぐさまスマートフォンを放り出して寝転がり、どっと息を吐いた。肺がキリキリと痛みそうになる。
案の定、会社の人間は自分が無断欠勤をしたと思っていたようだ。おそらく会社中でこれだから最近の若者は、と嘲笑されたに違いないだろう。包み隠さず正直に風呂場で倒れて救急車で運ばれたと告げた瞬間、上司の口調が柔らかくなったのがせめてもの救いだった。倒れた日がその上司に激しく叱責された日でもあったせいなのかはわからないが、明日まで休んでいいと告げられたため、おそらくうわべだけだとしても心配はされているのだろう。
ともかく真っ先に優先すべき事柄は終えた。あとは自分の命の恩人である隣人に感謝の言葉を述べるだけだ。
寝転がったまま、病院からの帰りしなに購入しておいた菓子折りの紙袋を眺めた。病院代も含めると手痛い出費だったが、命の恩人に献上する品物としては安いにもほどがあるだろう。
これを携えて礼を言いに行かなければ。今の時刻は夜七時過ぎ、おそらく隣人たちは部屋にいるだろう。この機を逃すといつまでたっても渡しそびれてしまう。それは重々承知だが、気が進まないのは二つに一つの賭けだからだろう。
一人は可憐な異性だが、一人は不気味な異質だ。そのどちらかが命の恩人。
しばらく時計と睨み合いをしていたが、川野は諦めたように重い身体を持ち上げると、軽く身なりを整えて菓子折りを引っ掴み、玄関へと向かった。
重々しく玄関のドアを開けて外に出ると、ほんの数瞬迷った後、川野はイズミの部屋のドアへと向かった。昔からツキが無いほうだと自覚はしているが、どうせなら賭けてみよう。意を決してチャイムを押した。いつかもこんなことがあったな、あの時は苦々しい体験をしたものだ、とふと懐かしくなった瞬間だった。
「あんた、もういいのかい」
驚いて声のする方を見ると、一つ向こうのドアからぎょろりとした目で痩せぎすの男がこちらを見ていた。
呼吸が止まる。口が開くが、言葉が出てこない。どうしたらいいのかわからない。今自分を睨んでいるのはあの異質なのだ。蛇に睨まれたカエルのように硬直してしまった。
あまりに固まっていたせいか、異質が見かねて口を開いた。
「・・・まだ大丈夫じゃないのかい」
「ああっ、いえ、もう大丈夫です。すいません・・・」
緊張の糸が切れて反射的に受け答えの言葉が出てきた。頭を下げるが、男は相変わらずぎょろりと目を向けている。気まずい空気が流れるのを感じて慌てて取り繕うように話しかけた。
「あの、救急車を呼んでくれたのは、ええと、その」
「ああ、呼んだのは俺だよ」
どうやら賭けには負けたようだ。それに加えて違う隣の部屋のドアの前で紙袋を持っているというこの状況が気まずさに追い打ちをかけている。
「あ、あの、ありがとうございました。おかげさまで助かりました。ええと、これお礼の品です」
いざ会話をすれば、恐怖というよりも気まずさを払拭したいという気持ちの方が勝った。手渡そうと近付いていくと、ドアから半身だけ覗かせていた男はぬるりと外に出てきた。いつかとおなじ毛玉だらけのスウェット姿だ。
「ああ、どうも」
あの時と全く同じセリフを吐くと、紙袋を受け取り、川野の顔を見開いた目でまじまじと見つめた後、男は謎の問いを投げかけてきた。
「なあ、あんたも撫でられたのかい?」
「・・・えっ?」
突然の問いかけに再び硬直していると、命の恩人は瞬きを繰り返した後、ドアを閉めてしまった。
部屋に戻り、座り込んで考える。あの男が口にした撫でられた、という言葉。到底普通の会話の中では発さないような言葉だが、身に覚えがある。かつてこの部屋の浴室で背中を値踏みされるようにぬらりと撫でられた記憶が蘇る。いや、そのことを言っているわけではないだろう。あまりにも脈絡がないし不自然だ。だが、撫でられた、なんてことをあんなに唐突に言うだろうか?
もはや結び付けて考えることしかできなくなっていた。なぜあの男は自分が浴室で体験した恐怖を知っているのか。この水源荘には何かあるのだろうか。部屋を見渡す。なんてことない部屋だ。唯一の違和感は浴室で体験した恐怖。
・・・考えすぎだ。あんなものは疲れから見た幻覚にすぎない。ため息を吐いて顔を上げると水槽が目に映った。
そういえば、帰ってきてから水槽の様子を見ていない。這うようにして近付き、鼻先がガラスにつくほど顔を寄せた。
・・・・・明日は休みだったな、あの男に聞いてみよう。この水源荘に一体何があるのか。
そう決意した。隣人に恐怖など感じている暇はない。ここへ来て不可解なことがこうも続くのは、この水源荘に何か得体の知れないものが潜んでいるはずだ。
ビリー以外の生命が忽然と消え失せていた水槽の前で、川野はいつしか拳を握りしめながら、そう確信した。
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