第12話 遭遇

 川野は部屋に入るなり、すぐさま上着を脱いだ。じっとりと濡れて重くなっているそれを部屋干し用のスタンドに雑に引っ掛けてから一息つくと、背中が勝手に小刻みに震えた。どうやら上着の下も濡れてしまっていたようで、身体の芯からひどく冷え切っているのがわかる。

 どうにかしなければ。そうわかっているはずなのに、部屋の壁に目線がいってしまう。安っぽい壁紙が貼られた殺風景な壁を見つめる。この薄い壁一枚隔てた向こう側には異質が住み着いているのだ。一か月近くここに住んでいた間、自分は呑気に忘れて過ごしていた。なんて危機感のないことだろうか。

 いつのまにか崩れ落ち、部屋の中央に膝をついていた。悪寒が背中を這いずり回っている。全身の水気に体力を奪われ、思考力が低下していくのがわかる。このままではまずい。とにかく身体を温めないと。





 浴室に入るなり、湿り気を帯びた冷気の洗礼を受けて身体が悲鳴を上げた。急いでシャワーの蛇口をひねり、お湯になるのを待ったが、なぜかいつまでたってもぬるま湯が吐き出されてくる。ガス給湯器の故障だろうか。温度設定は入る前に高く設定したはずだが。

 考えている暇はない。ぬるま湯だろうが、今の自分にとっては至福の温度だ。脳天からいつものようにかぶった。多少身体が温められ、思考力が回復してきたが、同時に考えたくないことや思い出したくないことも浮かんできた。

 虚脱感や無力感。もうどうにでもなれという自暴自棄な感情が蘇ってくる。ちっぽけなユニットバスから世界を呪っていると、不意にデジャヴを感じた。

 いつしか体験した浴室での恐怖。あの時もこうやってシャワーを浴びていた。これではあのときの二の舞になるのではないか。また得体の知れない恐怖に呑み込まれてしまうかもしれない。

 急に薄ら寒くなり、シャワーを止めた。背中を這いまわる悪寒が寒さによるものなのか、恐怖からのものなのか、わからない。このままではだめだ。浴槽に栓をして蛇口を思いきり捻った。肩まで湯につかればこの悪寒を払拭できるかもしれない。

 ぐったりと浴槽にうずくまる。まだお湯は足元に浸る程度だったが、構わなかった。それに、一度座り込んでしまうと立ち上がる気力が起きなくなっていた。

 まずいな。病院に行ったほうがいいだろうか、いや、風呂から上がったら薬を飲もう。ああ、薬はそろえていなかったな。近所のドラッグストアに買いに行かないと。

 疲れきった身体は硬直していくばかりだったが、脳だけが目まぐるしく回転しだす。いや、回転しているというよりは空回りを繰り返しているような感覚の方が近い。無意識に首を垂れると、いまだにお湯は腰の位置にすら達していなかった。時間の間隔すらわからなくなっているのだろうか。前頭葉がぐらつきだし、視界が滲みだした。ああ、このまま眠りに落ちてしまうのだろうか。こんな所で気を失ったら誰にも見つからずに死んでしまうかもしれないな。ああ、あの孤独に殺された人もこうやって世界から消えていったのかもしれないな。

 別にいいだろ。知ったことか。俺をないがしろにしやがった世界なんて———。





 夢か現か、わからない境界線に川野は訪れた。いつのまにか気絶していたのか、浴槽に水が並々と溢れていた。熱いのか冷たいのかすらわからない。感覚がない。

 蛇口から吐き出されていた水はなぜか止まっていた。自分が止めたのだろうか。熱いお湯を貯めないと———。


 —————ぴちゃっ。


 突然、蛇口から黒いヘドロのような液体が滴った。一滴、二滴、ぼたぼたと漏れるように垂れてくる。浴槽に滴り落ち、水中に黒い霧のような模様が滲んでいく。

 詰まりきったヘドロが吐き出されるように、徐々に黒い液体は勢いを増して浴槽を真っ黒に染めていった。液体というよりは、なにか泥混じりの汚水のようなどろりとした粘液を思わせる。

 ただただ浴槽が黒く染まっていくのを見ることしかできなかった。まるで黒い粘液に生気を奪われているような感覚が身体中を支配していく。

 やがて、どろりどろりと粘液を吐き出していた蛇口が、ぶるぶると震えだした。急に長い間使っていない蛇口を目一杯捻った時のように、破裂音を出しながら毒々しい粘液が勢いよく吐き出されていく。びちゃびちゃと水面にしぶきをあげて落ちていき、跳ね返りが顔にかかったが、身体はもう微動だに動けなかった。

 ひとしきり蛇口は荒ぶった後、急にしんと沈黙した。もう浴槽に浸っているのは水ではなくなっている。じとりと全身を重油に浸しているかのように身体は粘液に捕らえられている。

 

 ————どろり。


 再び蛇口から粘液が滴った。いや、さっきまでとはまるで違う粘度の粘液だった。重油の比ではないほどギトリとした粘液が蛇口から這い出してきた。水風船を作る時のように、こぶし大の粘液の塊が形成されていき、ぼちゃりと浴槽へと落ちる。

 水音をたてて落ちた瞬間、全身を他者に掴まれ隷属されたような気がした。それと同時に滞留していた粘液がぐるぐると浴槽の中を這いずり回りだした。脳裏にぼんやりと浮かんできたのは、幼いころ汚いドブに落ちた時の記憶だった。ヘドロに全身が浸かり、腐った木の葉や木の根が粘りの中に潜んでいる感覚。今、その感覚が全身を駆け巡っている。 

 しばらく浸られていたが、意志を持っているらしき粘液はやがて川野の眼前に陣取っていた。ごぼごぼと湧きあがるように粘液は頭をあげて顔を覗き込んだ。ぬらぬらと絶え間なく蠢いているそれは、蛇のような鎌首を思わせる。目など無いはずなのに、じとりとした視線を感じる。

 ああ、値踏みされているな。お前は俺を呑み込むのか?なあ、どうなんだ?

 疑問を投げかけたが、それには一切通じていないようだった。浴槽の粘液は、全身を締め付けるように蠢いている。

 どれくらいの時間が経過したのかわからないが、やがてそれはぐちゃりと口を開いた。粘り気を帯びた口の中は、まるで底のない虚穴を覗いたようだった。

 上顎が頭に触れる。ああ、呑み込むのか。やはり、俺はここでくたばるんだな。こんな誰の目にも触れられることのないしみったれたところで。いいだろう、俺が消えたって困るやつなんていない。


—————————————————————。


 ふざけるな。

 ふざけるなっ!!!

「があああああああああああああ!!!」

 朦朧としていた意識が怒りの咆哮によってはっきりと輪郭を取り戻した。ふざけるのも大概にしろ。俺に消え失せろっていうのか。どこまで俺をなめ腐っている気だ。世界だか何だか知らないが俺に指図をするんじゃねえ。

 咆哮した瞬間、身体は無意識に立ち上がり、眼前の粘液を振り払っていた。腕を滅茶苦茶に振り回すと、粘液の鎌首は泥の塊をはたいたように原型を失ってユニットバス中に飛び散った。壁も天井も真っ黒な血しぶきが飛散し、凄惨な様相になっていったが、ただひたすら怒りに任せて暴れ狂った。

 粘液は飛び散った後もそのそれぞれがヒルやミミズのように蠢いていて浴槽へと戻ろうとしていたが、川野が壁を殴りつけるとぞわぞわと散っていった。

 何が起きているのかは理解できなかった。だが、狂ったように暴れまわっていると粘液はやがて諦めたように排水溝をめがけてぬらりと吸い込まれていった。

 息が上がっている。いつのまにか浴槽を飛び出ていたようで、洗い場の床に倒れこんだ。一瞬の意識の覚醒が終わりを告げて再び視界が滲んでいく。床に頬が付き、体温が同化していくのを感じながら、川野の意識は境界線を越えて暗闇の中へと落ちていった。


 


 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る