第11話 異質

 天気予報外れの突然の雨に打たれながら、川野は灰色の空の下を歩いていた。仕事帰りに夕食をとり、帰路についていた途中の事である。ここ最近では珍しく明るい時間帯に帰ることが出来ているのは、職場で起こしたミスが原因だった。言い逃れが出来ないほどの単純なミスをしてしまい、上司から叱責され、半ば蹴りだされるような形で帰宅を命じられてしまったのである。

 単純なミスを犯した自分の愚かさを呪いながら街を歩いていた時、ふと今日はせめて精がつくような飯を食べようと思い立ち、ありふれた大手チェーン店で川野からしてみれば豪勢な夕食をとり、帰っていた矢先の出来事だった。

 五月雨、といえば聞こえはいいが、今の川野にとっては失意の雨である。土砂降りではないが、傘が必要なほどの雨に打たれつつ、白焼けした夕方の街を歩いた。途中、コンビニなどに寄れば傘を買うことなど造作も無かったが、自分の不甲斐なさや、上司から受けた叱責の理不尽な言葉に頭を支配され、やけ気味に歩を進めていた。

 もう、どうにでもなっちまえ。川野の脳が弾き出した結論はその言葉だった。脳だけがオーバーヒートしたように焼き付いていったが、身体は雨に打たれてひどく冷え切っていく。

 くそったれ。そう心の中で絶叫していたら、いつのまにか水源荘の入り口まで辿り着いていた。いつも通り敷地内に入り、正面の階段を目指して向かっていたところ、いつもとは違う光景が目についた。 

 一階の通路に警官が立っている。制服姿で目を伏せ、きっちりとドアの前に佇んでいる。その隣にはなにやら不穏な表情の年配の男が、おろおろと目を泳がせてうろついていた。

 視界に入った瞬間に、脳は焼き付くのをやめて推測を開始した。警官という非日常な存在からは物騒な出来事が連想される。空き巣でも入ったのだろうか。うろついている男は住人なのだろうか。それとも——————。


「ケヘへへッ」


 突如、背後を車が走り去った。バシャバシャという水音とエンジン音が駆け抜けていったが、それよりもくっきりと耳に飛び込んできたのは、どこかで聞いたことがある笑い声だった。

 息を呑んで振り返ったが、車はもう敷地内を出るところだった。車体は後ろしか見えなかったが、見覚えのある大型のバンだった。

 まさか———。

 再び一階の通路に目をやる。相変わらず警官は伏し目がちで突っ立っていたが、年配の男はじとりとこちらを見ていた。先ほどまで、落ち着きなくうろうろとしていたのに、ぴたりと直立不動でこちらを凝視していた。

 思わずひるんで、目線を無理矢理そらした。反射的に上方に顔を向けると、二階の通路から自分を覗き込んでいる人物がいた。

 目をそらした先にまさか他の人間がいるとは思わず、驚愕して視線を外せなくなった。その瞬間、脳の中に電流が走るような感覚と共に、いつか放り出していたパズルのピースがカチリとはめ込まれたような感覚が襲ってきた。

 たった今思い出した。すっかり忘れていた。初めてここに来た時にベランダから自分を覗き込んでいた異質な存在。


 あいつだ。


 なぜだか、確信があった。あの時と距離も場所さえも違うのに、直感がそう言っている。あいつは誰だ。あの覗き込んでいる痩せぎすのぎょろりとした目の・・。

 隣の部屋に住んでいる男。そうだ。一度しか顔をあわせなかったが、あいつは隣人だ。

 千分の一秒でそれを理解した瞬間、異質の正体は顔を引っ込めてガチャリとドアを開け、消え去ってしまった。

 数秒の間の後、視線を元に戻すと警官はやはり伏し目がちだったが、年配の男はなにやら携帯を取り出して話し込んでいた。その光景になぜだか急に居心地の悪さを感じ、早々と自分の部屋へと向かった。

 体は冷え切っているのだから、一刻も早く安息の要塞にこもって身体を温めたい。そう、安息の要塞に———。

 今はもう違うかもしれないな。

 隣の部屋には異質な存在が住み着いているのだから。

 

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