第8話 浴室
アカハライモリ。有尾目イモリ科イモリ属に分類される両生類の一種である。アカハラという名前のとおり腹部が赤地に黒の斑点模様になっており、これはその見た目通りに毒を持っていることをアピールする為の警戒色であろうと考えられている。毒と言っても手で触れた程度では問題ないほどの微量な毒しか持たない。日本の固有種でありほぼ全域にに生息しており、川、池、水田などに生息している。主に水生昆虫やオタマジャクシなどを捕食して生活しているが、小魚や甲殻類などを捕食することもある。
そんなことはわかってるよ、とスマートフォンを布団の片隅に放り出した。ビリーとはもう五年ほどの付き合いになるのだから、わざわざインターネットに答えを求めなくとも、どの人工飼料が好みかまで分かりきっている。
布団に仰向けに寝転がり、考える。イモリは貪食な生物ではあるが、狩りは動きが鈍重な為、得意なほうではない。水面を泳いでいるメダカを捕食するのはかなり難易度が高いはずだ。仮に捕食できたとしてもいくら貪食とはいえ、三、四匹も一気に食べるのは無理であるし、肝心のビリーの腹は異様に膨れてなどいない。
ビリーが食べた、という選択肢を除外するならば考えられるのは水槽からの飛び出しや、自然死した死体が共食いや水流により分解されてしまった、などの理由であろう。
だが、水槽の付近に干からびたメダカは見当たらないし、自然死した死体がたった一日で分解されるなどありえないことである。これではまるで溶けてなくなってしまったようではないか。一体どこに行ってしまったんだ。
無気力感に満たされてしまい、動けなくなってしまった。生物を飼育すること。それはその生物の生命に責任を持つということである。生物飼育を趣味でやっている人間として、それだけは強く意識してきた。それが今はどうだ。行方不明とはいえ、メダカはもう死んだも同然だろう。
部屋にコチコチと時計の音だけが響く。明日も仕事なのだから着替えて食事をとり、風呂に入り、寝支度をしなければならないとわかっているのに、体は言うことを聞かない。ぼんやりと時間だけが過ぎていく感覚に囚われて、何もやる気が起きない。このまま朝を迎えてしまうのだろうか。
ピリリリリと突如、携帯の着信音が鳴った。何回かコールした後、ようやく体が反応して手に取ると画面には親友の名前が表示されている。
「もしもし?」
「おっす・・・どうした?元気ねえけど?」
池内は心配そうな声色で返した。
「いや・・いろいろあって・・・何?」
「ああ、いやあ、久々にどうしてるかなって思ってよ。それだけだよ」
「はは、俺、お前の元カノかよ」
川野はむくりと起き上がりながら返した。久しぶりに聴く親友の声は乾いた心に少しだけ潤いを取り戻した。
「ばっか、今そんなこと言うんじゃねえよ!」
突然池内の声が弾んだ。
「はあ?」
川野が不思議に思っていると、池内の背後になにやら気配を感じた。電話口からは、甲高い笑い声がわずかに漏れてくる。雰囲気から察するに女だ。ああ、そういうことか。
「ええと、まあいいや。じゃあな!今度また呑みでもいこうぜ」
「・・・ふふっ、ああ、またな」
プツリと通話が切れた。顔は笑っていたが、親友との会話によるものではない。自嘲気味に笑みが漏れてくる。
ああ、孤独だな。そう笑いながら時計を見るともうかなり遅い時間になっていた。体に力は湧き上がってこなかったが、無理矢理立ち上がった。せめてシャワーだけでも浴びなければ。
カチャリと安っぽいユニットバスの扉を開くと、無機質で湿っぽい空間が出迎えた。シャワーの蛇口をひねり、水が温水になるのを待つ間、浴槽に手を触れると気持ちの悪いぬめりとした感触が指先に伝わった。
ああ、そろそろ洗わないとな。そう考えているうちに、徐々にシャワーは温水を吐き出し始めた。肌寒さに耐えきれずにぬるま湯の内から浴びると、じわじわと身に浴びている水が熱くなっていく。髪をかき上げながらひとしきり浴びた後、シャワーを止めてシャンプーで髪を洗いにかかる。間髪を入れずに、体が冷えないように素早くボディーソープで全身を洗っていく。全身が泡に濡らされていき、ぬめりを帯びると自分が多少浄化されたような気がして、安心感が包んだ。
無心で体を清めていたが、脳裏に帰路での出来事がフラッシュバックした。人だかりから聴こえてきた言葉が急に耳にこびりつく。
”お風呂で”
脳天からシャワーをかぶりながら浴槽を眺めた。考えるな、と脳に命令しても無駄だった。また時間が止まる。帰路で遭遇したあの出来事。孤独によって殺された、見知らぬ人間。
辛かっただろうか、苦しかっただろうか。一体どのようにして逝ったのだろう。浴槽の中でだろうか。外でだろうか。見つかった時に人としての原型は留めていただろうか。
身が震えた。肌寒さからではない。脳にネガティブな思考が浮かんでは消えていく。やめろ、考えるな。振り払うようにシャワーの蛇口を勢いよくひねった。温度調節の取っ手もひねって熱水にすると、火傷しそうなほどの熱さが全身にまとわりついていったが、構いもせずにひたすら浴び続けた。頭が熱さに支配されていき、のぼせたようになっていく。そうでもして思考を停止させないと、ダメになってしまうような気がした。何か得体の知れないものに呑み込まれてしまうような感覚が襲ってくる。
しばらく熱水を浴び続けた後、のぼせて倒れそうになる直前でシャワーを止めた。頭がぼうっとして立ち眩みがしていたが、思考は妙に冷静だった。浮いたような意識で全身が濡れたまま一人で立ち尽くしていたが、脳だけが異様に冴えている。不安、孤独、苦悶、恐怖。それらの感情が群れを成して渦巻いていく。
———————ぬらり。
「ぅああっ」
声にならない声がでて、前に倒れこんだ。おもわず背中で受け身をとると置いてあったシャンプーのボトルが転がり、ガランガランと音をたてる。
何だ、今のは。背中を何かに撫でられたような感覚があった。背中は濡れていたが、雫がつたうような感覚ではなかった。まるで何かに値踏みされるようにじとりと触られたような、そんな感覚だった。
一人、背後だった場所の虚空を見つめるが、そこには湯気しか舞っていなかった。狭いユニットバス内は静寂で満ちていて、じんじんと脳の血管が脈打つ音しか聴こえてこない。
呆然としていたが、逃げるようにしてユニットバスから出た。素早く着替えた後、歯を磨きながら髪の毛を雑に乾かして部屋に戻る。気のせいだ、疲れているんだ。のぼせていて脳が呆けでもしたんだろう。そう自分に言い聞かせた。
空腹感もあったが、歯を磨いた以上もう何も食べる気は起きなかった。電気を消して布団に潜り込む。
毛布をかぶり、身を丸めているとさっきの背中の感覚が蘇ってきそうになった。布団の中で意味もなく身をよじって背後の悪寒をかき消す。疲れていて遅い時間なのになぜか眠りに落ちれそうにもなかった。
真っ黒に塗りこめられた部屋の中にはただひたすらコチコチと時計の音だけが響き続けていた。
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