第7話 帰路

 時刻は夜の十時過ぎ頃、一人会社からの帰路についていた川野は、とぼとぼと下を向きながら夜の街を歩いていた。就職してからもうじき一か月がたとうとしている。仕事はそこそこ板についてきたものの、まだ半人前にすらなっていない。だがしかし、かといって仕事を任されることはなかれども、きちんと定時に帰ることが出来るほど、優良な会社ではない。最近はこの時間帯に帰路につくことも増えてきた。

 すっかり通いなれた道を歩く。あまり栄えていない飲食店街のちゃちな電飾の光を浴びながら通り過ぎると、長い住宅街を突っ切らなければならない。一定の距離にきっちり並んでいる街路灯の青白い光を浴びて、川野は虚しさと空腹感に襲われた。

 さっきの飲食店街で、夕食をとればよかったな。下を向きながらほんの少し後悔した。だがいまさら戻ろうという気は起きない。ただ黙々と帰り道をゆっくり歩いた。明日も仕事のため、一刻も早く家に帰って体をただただ休めたい。その欲求だけが川野を突き動かしていた。

 ゆっくりと歩きながら夜の住宅街の闇に浸っていると、各々の家から漏れてくる家族の喧騒がわずかに聴こえてくる。子供の泣き声、笑い声、テレビの音。音だけではなく、かすかに夕飯の匂いも漂ってくる。

 俺には何もないな。そう思い、それを振り払うように帰路を行く。何か気晴らしになるようなものはないか、ポケットからスマートフォンを取りだして軽くいじったが、めぼしいものは何もなかった。仕方なくスマートフォンをポケットにしまいなおした。

 ふと上を見上げた。夜空は曇っていて星は全く見えなかった。遠くにぼんやりと月だけが浮かんでいる。その月すら雲に汚れて姿を隠そうとしている。

 下を向きなおし、ふう、と短くため息をついた時であった。薄暗く青白い道の向こうから、赤い光が差している。何だろう、とは思ったが急ぐわけでもなく無気力にとぼとぼ歩いていくと、その赤い光を放っている正体が救急車だということがわかった。歩道に乗り上げて音を消し、赤いライトだけを回して停車している。周りには小さな人だかりができているようだ。

 近付くにつれてはっきりしていくが、救急隊員のような人影は見受けられなかった。こんな夜に一体何があったんだろうと思い、不謹慎ながらも興味に負けて耳を澄ます。


 ”・・・さんが。” 

 ”・・があったの・・・”

 ”お風呂場で・・・”

 ”・・・・この前から・・・だったから・・”


 人だかりからは全容を把握できるほどの情報は聴こえてこなかった。だが、どうやら物騒な事件ではなく、事故らしい雰囲気がみてとれる。

 ちょうど人だかりの横を通り過ぎようとした時であった。全身が車のライトに照らされたかと思うと、大型のバンが迫ってきた。急な出来事に思わず身をたじろいでいると、バンは急停車に近い形で止まり、中から作業着を着て作業帽をかぶった若者が降りてきた。バンの車体には清掃ケア・クリーニングの文字が見て取れる。 若者はドアを乱暴にしめると伸びを一つした後、あくびをしながらなにやら携帯を取り出して連絡を始めた。歳は自分より恐らくいくつか上だろう。作業帽のしたからは金髪が覗いていて耳にはピアスがついている。反対側のドアから降りてきたのか、同じ格好の年配の男が隣についた。チャラついていてやかましい若者に相反して、無表情で黙りこくっていて目が死んでいる。

 急な出来事に驚き、目を離せないでいると、連絡を終えたのか若者が携帯をしまいながら話しかけてきた。

「あんた、ここと関わりがある人?」

 若者は救急車が乗りつけている家を指さしながらぶっきらぼうに訪ねてきた。

「えっ、いや、違います」

 急に話しかけられて、ぼそぼそと声が出る。

「あっそう」

 若者は川野に興味をなくすとバンの横のドアを開けてなにやらごそごそと荷物を漁り始めた。

「あの、何があったんですか」

 自分の口から言葉が出ると同時に川野は後悔した。普段ならそそくさと退散するような場面だというのに、小馬鹿にされたような若者の物言いにむっとしてつい言い返してしまった。

 だが、若者は川野が後悔を始めるより先に呑気に返事を返した。

「風呂場で人が死んだんだよ」

 川野は若者が何の気なしに返事を返してきた為、拍子抜けしてしまった。返す刀を探していると、若者は荷物を漁るのをやめて川野の方に向き直った。手にはなにやら、映画で特殊部隊が身に着けているようなマスクと肘の部分まであるゴム手袋を抱えている。

「俺らが呼ばれたってことはそういうことだよ。さあ、死後どれくらい経過してるんだろうなあ?ケヘへへッ」

 若者はそう言った後、小さな人だかりを押しのけて家の中へと入っていった。その後を年配の男がこそこそとついていく。

 川野はしばらくあっけにとられていたが、人だかりが散っていくのを皮切りに再び歩を進め、夜の住宅街の闇に浸りなおした。さっきまでと同じように黙々と歩いていくが、頭の中は複雑な感情が渦巻いていた。若者とのやりとりの後悔、見知らぬ人間の無残な最期。何よりも川野を複雑にさせたのは見知らぬ人間の死因だった。

 男か、女か、若者か、老人か。それはわからないが、あそこでひっそりと死んだ人間は孤独によって殺されたのではないか。

 いつの間にか水源荘に辿り着き、自分の部屋へと帰ってきた。目の前にはいつもの光景が広がっていたが、ここにも孤独は満ち満ちている。すなわちほとんど死と隣り合わせだ。安息の要塞であったはずの部屋ですら、崩れ落ちたように感じてしまう。

 深く考えるのはやめよう。それに自分は厳密にいえば孤独ではない。

 水槽を眺める。ビリーは呑気に水場に沈んでいた。ゆらゆらと水底を這っている。水槽に鼻が付きそうなほど近付いてその様子を見る。

「なあ・・お前は・・・」

 不意に言葉がでたが、はっと息を呑んだ。

 水面を漂っていたメダカ達が明らかに減っている。確実に九匹ではない。目見当でも、四、五匹程度に減っている。しばらく水槽の中を凝視していたが、いつかと同じようにまるで溶けてなくなったように姿を消していた。

 川野は呆然と座りつくした。水槽に反射した川野の虚無感に溢れた顔の中を、幾匹かのメダカとビリーは気にすることもなく、ただゆらゆらと漂い続けた。

 

 

 

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