第6話 イズミ

 —————「う・・ん・・・」

 眠い。それだけが頭の中を支配している。仕方なく開いた目にはのたくった布団しか映らなかった。いったい今何時だ。せっかくの休日なのだから昼前まで寝ていたい。

 渋々枕元に置いてある目覚まし時計を探す。ぼやけた視界から場所を探り当て、引っ掴んで顔の前まで持ってきた。安物の小さな目覚まし時計は、しっかりとしたデジタル表示で午前八時過ぎを嫌みったらしく正確に秒単位でカウントしていた。

 ああ、嘘だろ。早く起きすぎた。くそっ。

 覚醒していない頭で悪態をつく。目覚まし時計を放り出して再び布団に潜り込んだが、なぜだか二度寝ができなかった。なんだかひどくもの悲しいことを思い出したような、思い出せないような、そんな気がするが。それが頭のどこかにへばりついていて眠りに落ちたい欲望を遮っている。

 ああそうだ。夢を見ていたんだ。なんの夢だっただろうか。うまく思い出せない。ただ、その夢で見ていた光景に今では二度と戻れない。それだけはなぜか寝ぼけた頭でもはっきりとわかる。

 布団の中でぬくぬくとした温かさに包まれてはいたが、じわじわと言いようのない虚しさに蝕まれていった。しばらく身を丸めていたが眠りの世界へと逃げ込めそうにはない。川野は観念した後、むくりと頭の中のもやを振り払うために起き上がった。




 時計の針が午前十時過ぎを示した頃、川野は狭いベランダにしゃがみこんで水槽の浄化フィルターを洗っていた。あれから結局起きたはいいものの朝食を作る気力はなく、コーヒーだけを飲みながらだらだらとスマートフォンをいじっていたが、恐ろしいほどに時計の針が進まなかったために、ただ漠然と行動することにしたのである。

 日は差していたが、まだまだ外の空気は冷たい。バケツに汲んだ水に触れた瞬間に軽く後悔したが、何もしないよりはマシである。黙々とフィルターのパーツを外して水中ポンプと濾過スポンジを洗った。

 まだ水槽を立ち上げて二週間ほどしかたっていなかった為か、ほとんど汚れておらずまったく洗い甲斐がない。せいぜい水中ポンプの吸い込み口に水草の破片が絡みついているだけだった。それらを一つ一つつまんで取り除いていくと、指先が寒さに負けてこわばっていったが、ただひたすら無心で指を動かした。

 休日の朝だというのに、自分は何をしているんだろう。作業に没頭していたが、ずっとその考えが頭の中に渦巻いていた。いつのまにかすべての破片を取り除いていて手は止まっていたが、頭の中で渦巻くそれに囚われてしまい、動けなくなった。

 街の喧騒が遠く聴こえる。小さなバケツに自分の顔が映っている。水面の中の自分は無表情でこちらを見つめている。我ながらしけた面だな。思い浮かぶ、というよりはまるで脳に羅列されたかのようにそんな言葉が焼き付く。

 突然風がベランダに吹いた。冷たさに煽られ、否が応にも体が動いた。寒さに震えて身をよじるが、振り払えずにに仕方なく立ち上がった。

 手すりに腕を置き、街を眺める。街は相変わらず喧噪に満たされている。まだまだ見慣れた街ではないが、取り立てて特別な風景ではもうなくなっていた。都会過ぎず、田舎過ぎず、平坦な風景が広がっている。

 越してきた時に抱いていた街に対する思いはもうほとんど無くなっていた。すっかり日光に暴かれて正体を現してしまっている。

 何か湧き出して見せろ。そう思いながら無気力に街を見つめていた時であった。カラカラと隣室のベランダの掃き出し窓が開く音がした。

 びくッとして思わず視線をやると、中から煙草をくわえた女が姿を現した。街並みを見つめながら手すりにもたれて、ライターで火を着けようとしていたが、風に阻まれてうまく着かない様子である。顔をしかめながら、身をよじって火を着け終えて、最初のひと吸いを吐き出したとき、偶然にも二人は向き直っているような形になった。

「ああ、ごめん。悪かったね」

 女はばつが悪そうに川野に言った後、足元に置いてあったらしい空き缶を拾って中に煙草をねじ込もうとした。

「ああっ、いいですよ。気にしないで」

 慌てて言葉が出る。急に人前に出たときのように、声がうわずりそうになるのを必死にこらえた。

「そう?ありがとう、じゃ遠慮なく」

 女は顔色を変えずに礼を言うと空き缶を持ったまま、煙草にふけりだした。歳は同じくらいだろうか。パサパサの黒髪にきついピンク色のメッシュをいれている。手首にはいくつかのアクセサリーらしきものとヘアゴムが巻かれている。着ているシャツも黒とピンクで配色されていて、ドクロらしき模様があしらわれていた。パンクロックバンドみたいだな、と思っていると女は空き缶に煙草の灰を落としながら話しかけてきた。

「見ない顔だけど、引っ越してきた人?」

「あっはい、ちょっと前に引っ越してきた川野といいます。すいません、まだ挨拶してませんでしたね」

「あー、いいよ別に。そんなにかしこまらないで」

 あっ、と気が付く。そうだ、結局隣人挨拶をしていないままだった。慌てて部屋に戻り、濡れた手を拭いて隅に置いていた洗剤を引っ掴んで戻る。

「あの、これ、渡しそびれてましたけど、どうぞ」

 ベランダ越しに洗剤を差し出すと、女はまた顔色ひとつ変えずに答えた。

「わざわざ悪いね、ありがと。あたしはイズミ。よろしく」

 イズミと名乗った女は煙草をくゆらせながら洗剤を受け取ると、川野の顔をきついメイクの目でまじまじと見つめると煙混じりに口を開いた。

「あんた、新社会人ってやつ?」

「えっ?ああ、はい。そうですけど」

「ふーん。そっか、頑張ってんね」

 イズミは吐き出すように言うと吸い終えた煙草を空き缶にねじ込み、

「じゃ」

とひとこと、部屋の中へと消えていった。

 取り残された川野はひとり煙草の匂いにまかれていたが、やがて洗っていたフィルターを手際よく組み立てなおした後、部屋へと戻った。

 最後の言葉。イズミの言った頑張ってんね、という言葉が引っかかる。軽蔑やからかいのようなものは見受けられなかった。むしろわずかにだが、羨望のような、失意のようなものが感じられたような気がした。

 だが川野はそんなことよりも、奇妙な満足感に満たされていた。初対面の人間のなんてことない一言だったが、今の川野にはそれで十分だった。

 今日は何をしよう。ともかく昨日の皿から洗ってしまおう。川野は笑みこそ浮かべなかったものの、何かが報われたような気がして少しだけ気迫を取り戻した。

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