第4話 異変

 就職した会社に出勤してから七日目の夜、川野は疲れ切った表情で玄関の重たいドアを開いていた。

 今日で初出勤日からちょうど一週間である。入社式、新人研修、歓迎会など一通りの新社会人としてのイベントを終えてやっと迎えた週末の夜であった。

 川野は自分自身を多少は人付き合いのできる人間だと自負していたつもりだった。しかし今となってはそれは単なる自惚れだったと自分を恥じていた。

 今までの人生で学んできた他人との接し方がまるで通用しない。中学生、高校生、その間してきた部活動、大学生になってからの先輩、教授との関係の在り方。この一週間でその身の糧にしてきたものを駆使して奮闘した。

 だがそのどれもがまるで通用しなかった。言葉や暴力とは違う、何か得体の知れない社会というものにゆっくりと押しつぶされ、打ちのめされた気分だった。

 部屋に入ると、ふう、と短くため息をついた。桜の季節だというのに部屋の中の空気はひどく冷え切っていた。コートをハンガーにかけ、電気ストーブをオンにした後、ガス給湯器のスイッチをいれてからしずしずと服を脱ぐ。狭いユニットバスで寒さに身を震わせてシャワーを浴び、小さな脱衣場で部屋着へと着替える。

 部屋に戻ると電気ストーブによってわずかに温められた空間が川野を出迎えた。まだ暮らし始めてひと月も経っていないというのに、この狭い空間が川野の唯一の安息の要塞であった。

 敷きっぱなしの布団に膝をつき、ゆっくりと倒れこむ。夕飯を作らなければならないが、なんだか気力が湧かない。布団に沈み込んだまま、全てを放り出して眠りの世界へと誘われそうになった時にふっと同居人の存在が脳裏によぎった。

 「ビリー」

 突っ伏したままぼそりと呟いたあと、這うようにして水槽の方へと向かう。

 浄化フィルターによって小さく振動して唸っている水槽の前に顔を近付け、上部に設置した照明のスイッチを入れると、内部が煌々と照らされてアクアテラリウムが姿を現した。池内と共に組み上げた石や砂利、流木をあしらった陸地と、水草がゆらゆらと水流によって揺れている水中がきらりと光る。

 どこにいるだろう。水中を見るがメダカが群れているだけだ。陸地を見ると流木の影に隠れて黒い尻尾がのぞいている。

 見つけた。思わずほくそ笑んでいると急につけた照明に驚いたせいなのか、流木の影からもぞもぞと這い出てきた。顔を上げてあたりをきょろりと見渡している。

 まじまじと顔をみつめる。この何とも言えない表情がたまらない。とぼけているようにも見えるが、まるで全てを悟っているような高貴な表情にも見て取れる。

 しばし眺めて癒された後、ピンセットでイモリ用の人工飼料を水中に沈めた。メダカたちがつついてくるのをよけながら十分に浸した後、ビリーの顔の前に持っていく。ビリーはじとりと餌をみつめると少しの間をおいてピンセットの先ごとぱくついた。

 ふふっ、と笑みが漏れる。どうやらビリーは新天地には慣れたようだ。餌を積極的に食べるようになったので恐らくここの水にも慣れたのだろう。

 いくつかぱくつかせた後、ひとつを粉々に潰してメダカ達にも与えた。メダカ達も我先にと水面をつついて餌にありつこうとしている。

 自分も餌にありつかないとな。確か買い置きのレトルトカレーがあったはずだ。そう思って立ち上がろうとした瞬間、ふと違和感を覚えた。なんだ。何かが変わっているような気がする。この水槽の中で。

 メダカ達を眺める。水面に群れているが、一匹、二匹、三匹・・・・。

 全部で九匹しかいない。おかしい。親父が送ってきたメダカは全部でちょうど十匹だったはずだ。もう一度数えてみるがやはり九匹しかいない。水中を見渡したが石の影にも水草の中にもどこにも見当たらない。

 ふとビリーを見る。

「・・・お前、食っちまったのか?」

 不意に口に出たが、ビリーは相変わらずどちらともとれない表情をするばかりだった。




「なあ、どう思う?」

 レトルトカレーを食べ終わった川野は、皿にこびりついたカレールーをスプーンで深追いしながらテーブルに置いているスマートフォンに話しかけた。

「そりゃあやっぱりビリーが食っちまったんじゃねえの?」

 スマートフォンがノイズの混じった池内の声で喋った。

「でも、ずっと人工飼料を食ってたんだぜ。たまーに小虫を食わせてたけど、小魚を食わせたことは今までないんだよ」

 川野が池内に連絡しているのはアクアリストとしてのアドバイスを乞うためでもあったが、なんだか無性に”友達との会話”をしたくなったからでもある。

 部屋にかけてある安物の掛け時計はもう十時過ぎを指していたが、週末の夜に数コールで電話に出た後、だらだらと相談に付き合ってくれている池内に川野は安心感を覚えていた。

「まあ環境が変わったんだし、そんなこともあるんじゃねえの?フィルターに詰まってないんなら、自然死で他のメダカに食われたくらいしか思いつかねえぞ」

「うーん・・・そうかな・・・・」

 あまり考えにくい。昨日までは十匹いた。しっかり数えていたわけではないが、なぜか確信がある。メダカは確かに死骸をつついて食べてしまうことはあるが、一日で食べ尽くしてしまうというのはないだろう。せいぜいやわらかい身や内臓をつつくだけで、背骨は残っているはずだ。昨日の夜に死んでいたとしても、それがフィルターの吸い込み口に引っ付いているはず。小エビや巻貝などのスカベンジャーがいれば話は別だが、ビリーとメダカ以外には水草にくっついてきたゴマ粒ほどの巻貝が数匹のみである。一日で腐肉を分解できるとは思えない。

「まっ、そんなとこだろ。それよりお前も何かやられたか?」

 結論をつけた池内は楽観的に疑問を投げかけた。

「何かって?」

「”新入社員の洗礼”だよ。俺なんか歓迎会でパンツ脱がされたんだぜ。最悪だよ」

「ぷっ、はっはっはっ。俺も一発芸とかやらされたよ」

 川野は数日ぶりに心から笑った気がした。それと同時に共感と安堵に包まれて、顔が自然と緩んでいくのを感じた。

「お前もか!やっぱどこでも同じなんだな。他にもよ、酒の注ぎ方とか言葉遣いとかでねちねち言われたりさ———」

 スマートフォン越しの会話に花が咲いていく。ほとんどが社会に対する恨み言だったが、話していくうちに川野の疲れ切った心はだんだんと癒されていくような気がした。




「ああ、じゃあな」

 ひとしきり話したあと、池内に別れを告げる。スマートフォンを操作して通話画面を終了させて、ふと皿をみるとカレールーがすっかり乾燥してガビガビにこびりついてしまっていた。

 ああ、もう明日の朝に洗ってしまおう。立ち上がってキッチンに行き、皿をシンクに置いて中に水を張っておく。

 歯を磨いたあと、電気を消して冷たい布団にもぐりこんだ。じわじわと体温が布団に移りゆくのを感じながら、すぐに眠気に襲われた。落ちていく意識の中でぼんやりと明日のことが頭に浮かぶ。待ちかねた週末だ。何も予定はないが。

 ふん、と世界をないがしろにするように寝返りを打った。

 知ったことか。

 そんな言葉が頭の中で反響する。そのまま布団に身をゆだねて、川野はゆっくりと眠りの世界へと落ちていった。

 

 

 

 

 

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