第3話 隣人

 水源荘に引っ越してきて二日目の朝を迎えた川野は布団をきれいに畳んだ後、狭いキッチンでトーストを焼いていた。小さなコンロで傷一つない新品のフライパンで卵を焼き、電気ケトルに水をためてスイッチをカチリといれる。持て余した時間を利用してスマートフォンに入れていたお気に入りの曲を選曲したあと、鼻歌交じりに新品のインスタントコーヒーの袋をを開封する。

 ここまできちんとした朝を迎えているのには川野なりの理由があった。それなりに規則正しい生活ペースを掴むことで、これからの新生活の出だしをより良いものにしようと昨晩思いついたからである。 

 新しさで埋め尽くされていた部屋の中にはわずかに生活感が染みつきだしていた。いまだに部屋の隅に積まれているいくつかのダンボール箱以外は、初々しさを帯びつつもどれもが手垢のついた様相に変化していた。

 ちょうど曲が終わった数秒後、オーブントースターが軽快な音をたてて焼き上がりを知らせる。すでに手元に用意していた皿に熱々のトーストを滑らせ、小さなコンロのガスを止めて今度は目玉焼きをフライパンからトーストの上へと滑らせた。 その上に塩を一振りしてテーブルへと運んでいく途中、グツグツと音をたてていた電気ケトルが沸騰を知らせた。キッチンへと戻るとケトルの口からふつふつと湯気がたっている。

 インスタントコーヒーの袋を開いた瞬間、はたと気が付いた。マグカップがない。

 軽快なペースを乱したことに若干落胆しつつ、まだ粗雑に並べていた食器入れの中からガラスのコップをひとつ取り出して粉を入れ、お湯を注いだ。

 部屋着の袖を伸ばし、コップを掴んで再びテーブルへと戻る。皿一枚とコップ一つを丁寧に配置したあと、スマートフォンでニュースのページを開いた。

 曲がりなりにも今の川野にとってはきちんとした食卓の完成である。理想的な朝を迎えているという満足感に浸りながら朝のニュースを眺めつつ、コーヒーを一口啜る。くだらないものやスケールの大きすぎるニュースに辟易した後、トーストにかじりつきながら今度は電子メモのアプリを開いて今日の予定を確認した。

 メモには”隣人挨拶 洗剤”と記してあった。そうだ。いよいよ隣人に初めて遭遇するときである。入居してからまだ一度も水源荘の住人には遭遇していない。

 一体どんな人物だろうか。まだ二日しか過ごしていないが、両隣の部屋からは微かな生活音は聴こえてきていた。それだけでは年齢や性別、人数はわからない。

 妙な人物でなければいいが。そう祈りつつ数日前に聞いた池内の隣人トラブルの話を思い出しながら電子メモアプリを閉じようとしたとき、メモの下の行に別の文字列を発見した。

 ”母 ビリー”

 そう記してあった。ああ、そうだった。今日は母が届け物を持ってくる日でもあったな。となれば母が来るまでに隣人の挨拶を済ませなければならない。新生活をともに送る同居人を迎え入れる準備をしておかなければ。

 トーストの最後のひとかけらを口に放り込んだ後、川野は水を張った水槽を眺めながらコーヒーを飲み干した。




 「ピンポーン」

 ありきたりなチャイムの音がドア越しに微かに聴こえた。ドアには何も貼られていない。無機質な金属製のドアにはところどころ錆が浮いている。

 時間が早いだろうか。川野は粉末洗剤を抱えながら時計を見返した。時刻は日曜日の朝九時半である。休日とはいえもうとっくに一日が始まっている時刻ではないだろうか。いや、そうとは限らないかもしれない。

 不安が頭を渦巻いていると、中からみしりみしりと足音が聴こえ、ドアがギイッと鈍い音をたててゆっくりと開いた。

 「はい」

 ぶっきらぼうな声とともにドアを開けたのは、血色の悪そうな顔をした中年の痩せぎすの男だった。今しがた起きたばかりなのだろうか、髪の毛が乱れている。よれよれのスウェットには毛玉がびっしりとついていた。

「あ、あの今度二〇三号室に越してきた川野といいます。よろしくお願いします」

 急に人と対面したせいで声が震えてしまった。軽く会釈をしつつおずおずと洗剤を差し出すが、相手の反応がない。

 目線を上げると男は目をぎょろりとさせて口を開いた。

「ああ、どうも」

 ぼそりと一言、男は洗剤を受け取ると薄ら暗い部屋のなかへと消えて行ってしまった。金属製の重たいドアがガチャリと閉まる。その場に取り残された川野はしばし呆然としていたが、すぐに我に返った。

 何だったんだ今のは。自分のふがいなさに反省しつつ、愛想の悪い隣人に落胆もしていた。気が付けば名前さえ名乗らなかった。こんなものなのだろうか、隣人との付き合い方なんて。

 うなだれたまま、今度はもう片方の隣人に挨拶をしようと反対側へと向かう。

 こちらのドアにも何も貼られていない。相も変わらず錆が浮いた無機質なドアが佇んでいた。

 さきほどの嫌な記憶が蘇りつつ、チャイムを押した。同じリズムの音がまたうっすらと中で響く。だがいつまで待っても反応はなく、川野はまた一人立ちすくむばかりだった。





「ピンポーン」

 忌々しいチャイムの音を聞いて、川野は玄関まで母を出迎えに行った。あれから結局片方の隣人と挨拶を交わすことはなく、部屋に戻り一人で鬱々としていたところである。つい先ほどドアの向こうからくぐもって聴こえてきたチープなチャイムが部屋にくっきりと響いていた。

「ああ、よかった。部屋あってたのね。まだ郵便受けに苗字いれてないでしょう。はやく作っていれておかないと」

 出迎えて開口一番に母の口からは小言が飛び出す。

「・・まだいいんだよ、新聞なんか取らないし。それよりも早くあがって・・・」

 ドアを開けたまま小言を言われるのは勘弁してほしい。母をせかして部屋の中へと招き入れる。

「まあ、狭いけどわりかし新しいじゃない。お風呂とトイレも別なのね。キッチンも一人暮らしならまあこんなもので十分ね」

 手荷物を床に放り出して部屋中を物色しだした母を、川野は鬱陶しくも、少し安心しているような眼差しでやれやれと見つめる。

「ああ、それよりビリーは大丈夫?」

「ああ、はいはい。ちゃんと言われたとおりに持ってきてるわよ」

 一通り部屋を見終えた母は床に放り出していた紙袋のなかから新聞紙でくるまれた包みを取り出した。

「ちゃーんと丁寧に運んできたから元気なはずよ。袋に入れるときだけはお父さんにやってもらったけど」

 母から包みを受け取り、テーブルの上で新聞紙を丁寧に剥がしていく。二枚、三枚と剥がしていくと、中からパンパンに膨らんだビニール袋が現れた。中は水滴と湿った水草で埋め尽くされている。

 川野はベランダへ向かい、小ぶりなバケツを回収してテーブルへと戻った。厳重に輪ゴムでとめられている袋の口をほどき、中の湿った塊をずるりとバケツの底へ移す。

 いた。水草に隠れていたが、よたよたと這い出してきた。真っ黒い体がてらてらと光っている。かつての同居人、アカハライモリのビリーだ。

「まーあ、母親には目もくれずに早いこと。ほらちゃんと元気でしょう?あんたのルームメイト」

 嫌味っぽく母が言う。少しばつが悪そうに川野は見返した。

「わかってるよ、ありがとう」

 母にありがとうなんて言うのは今までの人生であっただろうか。なぜか急にそんなことを思った。なぜだろう。ここのところ母の顔を見ていないせいだろうか。

「まったく、筋金入りの生物おたくね。トカゲと一緒に暮らすなんて、家に女の子が来たらどうするつもりなの?」

「・・・・・うるせえな」

 さっきよりもずっと嫌味っぽい顔で母に言われたせいで、反射的に言い返してしまった。取り繕うとして矢継ぎ早にほかの話題を言う。

「今日、親父は?」

 咄嗟にでた言葉とともに母の顔色を伺う。だが母はけろりとして返した。

「お父さんなら来るはずだったけど急に現場が入ったのよ。建築業の宿命ね。朝から出て行っちゃったけど、なにかあったの?」

「・・いや、なんでもねえよ」

 なんだ。後悔して損をした。能天気な母親でよかった。安堵していると飽きずに母が口をはさむ。

「ねえ、そのトカゲちゃん。新しい水槽にいれなくていいの?」

「まだだよ、すぐ水にいれると危ないからゆっくり水合わせをして慣らさないといけねえんだ」

 小さいバケツの底で水草に絡まって戯れているビリーを愛でるように眺めながら母の疑問に答えた。

 アカハライモリは種としてはかなり丈夫な生物だが、ビリーは特別だ。高校生の時に家の近所の川辺で捕まえて以来、ずっと飼育をしている。かなり愛着が湧いている存在であった。

 これからまた一緒に暮らしていくのだから雑な出迎えはできない。きちんと新居に迎え入れてやらなければ。

「あっ。忘れてた」

 母が急に声をあげる。

「そうそう、お父さんが持って行けって」

 母はビリーが入っていた紙袋の中から、もう一つ包みを取り出した。

 川野は顔をしかめた。同じように新聞紙でくるまれた包み。嫌な予感がする。同じように包みを剥がしていくとその予感が的中した。

「・・・メダカはいらないって親父に言っておいたけど」

 同じようにパンパンに膨らんだビニール袋の中にはメダカが十匹ほど入っていた。白い体色をしている。親父が家の水瓶で飼っているメダカだろう。

「いっぱい増えたから持って行けって。いいじゃない。トカゲちゃんと一緒に飼ったら」

 気楽なものだ。水瓶の中で繁殖したので間引きのつもりなのだろう。共生は可能だが、下手をすればビリーが食べてしまうかもしれない。

「まあ、いいよ。それよりこの後は?もう帰るの?」

 ほんの少し名残惜しく、しかしぶっきらぼうに川野が言うと母は相変わらずけろりとして言った。

「そうなの、せっかく来たけどお昼過ぎから町内会の集まりがあるからそこの商店街を一通り巡ったらもう帰らなきゃいけないのよ。何、一緒に行きたいの?」

 商店街とはおそらく近くの観光客向けの有名な商店街のことだろう。

「いや、いいよ。いつでも行けるし」

 人混みはあんまり得意じゃないし、これからルームメイト達の出迎え準備をしなければならない。なにより、新天地で母と一緒に過ごすというのはなんだか気が進まなかった。

「まあ、さみしい。じゃあ一人で行ってくるから。何か足りないものはない?帰りがけにまたここに寄って置いていってあげるけど」

「・・・・ああ、なら安いのでいいからマグカップ一つ買っといてくれる?持ってくるの忘れてたんだ」

 母はそそくさと手荷物を持って出かけていく準備を始めながら答えた。

「忘れたの!言えば持ってきたのに、もう。まあいいわ。わかった、マグカップね」

 母を玄関まで見送る。靴を履くためにかがんでいる母を見てなぜか少しもの悲しくなった。

「じゃあ、また帰りに寄っていくから。今日はずっと部屋にいるんでしょう?またインターホン押すから昼寝しないで起きとくのよ。なら気をつけなさいね」

 出かけていくのに気をつけなさいとはどういうことだ。まったく能天気というか心配症というか、ひょっとしたらそのどちらでもないのではないか。

「わかってるよ、それじゃ」

 文句を言うとまたややこしくなる。素直に返事をして母を玄関から見送った。

 ドアが閉まる。部屋の中に取り残されたが、今は一人ではない。

 川野はテーブルへと戻り、短くほくそ笑むとルームメイト達を出迎える準備に粛々と取り掛かった。

 

  

 

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