第2話 転居
「おい、こっちでいいのか?」
両手にダンボール箱を抱えた池内は、本棚の配置に悪戦苦闘していた川野に問いかけた。
「ああ、それはそこ。その大きいのはキッチンに置いといてくれ」
川野は本棚にしがみつくようにして抱えたまま、答えた。それを見ながら池内はやれやれといった顔をした後、つけていた軍手を外して一息ついた。
「こんなもんかね。今の荷物で最後。しっかし、外見は古かったけど部屋の中に入ってみりゃ意外と新しいじゃねえか」
おそらくはリノベーションというやつだろう。ひびだらけ、しみだらけの外壁だったが、部屋の中は扉や壁紙、ユニットバスやトイレも最近のものらしく、新品同様とまではいかないがある程度小綺麗に整えてある。
「ああ、そんなに期待してなかったけどな。うーん・・・とりあえずここでいいか」
ようやく本棚の位置を決めた川野は池内にならって軍手を外した。殺風景な部屋の中に、無機質なダンボール箱が並んでいる。川野は疲労感に襲われつつも、わずかな高揚を覚えていた。
今まで心の中や言葉で毒づいてはいたものの、なんだかんだといって新生活のスタートラインに立っているという事実は不安よりも期待を大きくさせていた。
単純なものだな、と自分自身を少し嘲りながら箱の中から荷物を取り出していくと、背後で池内が声を上げた。
「おおっ、60センチ水槽じゃねえか。何を飼うんだ?オスカーか?プレコ?」
振り向くと梱包を乱暴に解きながら、池内が目を耀かせている。
「おい、新しく買ったんだから丁寧に扱えよ」
警告を無視して池内はばりばりとがさつに梱包をむいて、ピカピカの水槽を丸裸にしてしまった。
「このサイズなら混泳もいけるな。小さいうちならアロワナもいける。なあ、何を飼うんだよ」
脇目もふらずに水槽にかじりついてまくしたてる池内を見て、川野は少し懐かしくなった。そうだ、こいつはこういうやつだったな。大学からの仲だというのに、ここまで親しくなったのも、二人の共通の趣味であるアクアリウムがそうさせていたんだったな。
「熱帯魚には手がだせねえよ。肉食魚なんてもっと無理だ。そいつはビリー用だよ」
ぶっきらぼうに川野は言った。だが声にはほんの少し嬉しさが混じっていた。
「なんだ、ビリー用か。イモリってことは陸地も作るんだろ?今日作るのか?俺も手伝うよ。っていうか俺にさせてくれ」
再度まくしたてられた川野はこらえきれずに笑い出した。まったくだ。こいつは何も変わっていない。相も変わらず生物飼育にのめりこんでいる。自分の生活よりも生物飼育を優先し、その日の食費を諦めて熱帯魚ショップに駆け込んでいく。
底抜けに明るく、人当たりがよくて誰からも好かれている。だからこそ引っ越しを嫌な顔ひとつせずに手伝ってくれる。大人になりかけている年齢だというのに、意気投合できた数少ない友人。
「わかった、わかった。とりあえず荷物を全部出してからな」
ひとしきり笑った後、川野は池内を促して和気あいあいと引っ越しを終わらせにかかった。
「ふー食った食った。久々に腹いっぱいになったぜ」
夜のファミレスで池内はソファーにもたれながら満足そうに言う。
「引っ越し手伝ってくれたのはありがてえけどよ、こんなにたらふく食うまで頼みやがって、まったく・・・」
テーブルに並んでいる大量の皿を眺めながら、あきれ気味に川野が漏らす。
「何言ってんだ、業者呼ぶよりもだいぶ安上がりだろ。ってことでゴチになりまっす」
池内がにやけながら返すのを見て、川野は自分も少しにやけた後、窓の外を眺めた。ほとんど知らない街の夜の顔が広がっている。なんてことない街なのに、ほんの少し危うさのようなものをガラス越しに感じた。暗闇が街の喧噪や灯りに暴かれて見え隠れしている。潜んでいるものはなんだろうか。期待すべきか、身構えるべきか。
「そういえばさ、お前の部屋って二階だろ?苦情が出るからベランダにビオトープは置かねえのか?」
池内は懲りずにアクアリウムの話題を投げかけた。夜の街にみとれていた川野は向き直り、紙ナプキンで口の周りを拭いながら答えた。
「苦情って?」
「ほら、ベランダビオトープって手入れに気を付けねえと虫が湧くだろ?俺も前に住んでたとこ、二階でさ。上、下、両隣の住人から小言を言われたんだよな。お前のベランダから小虫がやってくるってよ」
それはお前がベランダをジャングルかと見紛うほどの状態にしてたからだろ、という言葉を口の中に残っていたわずかな食べかすと一緒に飲み込んでから、川野は答えた。
「そういうわけじゃねえよ。とりあえずはビリーだけ。そんなにたくさん維持できるかわかんねえしな。今のところ、ベランダは水槽を洗えるだけで満足だよ」
「もったいねえな、俺だったらメダカ鉢だらけにするね。ついでにドジョウも繁殖させる。最近はこんなのもあってだな・・・。」
今度はスマートフォンに夢中になった池内に反応するのを諦めた川野は、ゆっくりと息をついて椅子にもたれ、自分の世界へと入っていった。無数の考え事を脳に張り巡らせていく。まだ就職先へ出向きだすまでは時間がある。それまでに街に出て必要なものをそろえていかなければならない。あれとこれと・・・・。
・・・?
突然脳裏に何かがよぎった。何だ。何かが脳のもやの中に身を潜めている。思い出さなければいけないはずだ。そうだ。この隠れているモノは生活必需品や娯楽品ではない。そんな日常的なものではない、そう、ずっと異質な・・。
「あっ」
思わず声が出た。思い出した。数日前の事だというのに、目の前のスタートラインと親友の存在に浮かれてすっかり忘れてしまっていた。
二階のベランダ。そうだ、あの日自分をみつめていた異質。あの異質は二階からこちらを見ていたはずだ。
そして自分が入居した部屋は・・・。
「なあ、おい。どうしたんだ?」
池内の声に引き戻され、川野の意識は夜のファミレスの一席に帰還した。
「ああ、いや、何でもねえよ。考え事してたんだ。・・・それより、今日はもう帰るのか?」
「なんだよ、俺のアクアリストとしてのアドバイスを無視しやがって。・・・ああ、もうこんな時間か。そうだな、もう出よう」
心なしか名残惜しそうに席を立った池内に続いて、川野もレジへ向かった。レジで馴れ合いながら会計をすませ、外に出ると夜の冷たい空気が二人を包む。
「じゃあ俺、こっちだから。またな、水槽のレイアウト、俺の構築したとこはいじるなよ」
池内がいたずらっぽく笑う。
「ふふ、ああ、またな。水槽に何かあったらまた連絡するよ」
川野が苦笑交じりに返すと、池内は手をかざしてじゃあな、と一言、夜の街に歩いて行った。
川野は表情を緩ませた後、反対の方向へと向き直った。楽しいひとときが終わった後の高揚感と孤独感が交互に襲ってくる感覚に苛まれながら、一人で街の夜を歩いてゆく。しばらくこの感覚に浸っていたかったが、街を行けば行くほどわずかな恐怖感が芽生えていった。
寒い。上着のポケットに手を突っ込み、自分を鼓舞するように早く歩を進めた。
確かめなければ、あの異質はどの部屋から自分を見ていたのだ。思い出せない。だが確かに二階だった。まさか自分の部屋ではないだろうか。まさか、まさか。
足取りが早くなる。体温が上がっていくのを感じる。吐いた白い息が後方へとすぐに消えてゆく。一刻も早くこの胸中のもやを吹き払ってしまいたい。まだか、水源荘は。そうだ、もうすぐだ。その角を曲がれば。
「・・・・・」
息が少し上がっていた。水源荘が見える。夜の暗闇に濡れているが、街の灯りにわずかに照らされている。ベランダもほんのりと確認できる。
だが、実物を見てもどうしても思いだせなかった。あんなに脳に張り付いていたというのに、まるで異質だけ切り取られたかのように思い出せない。
二〇三号室。自分の部屋だ。道路側から三つ目の部屋。まだ手付かずのベランダ。その両隣を何度見ようとも、何も思い出せなかった。
どれほどの時間を使って眺めていたのかわからないが、気が付くと息は落ち着いていた。上がっていた体温も冷たい夜にかき消され、溶け込んでしまった。
急に体が冷えたのを感じて、川野はまた歩き出した。下を向き、吐いた白い息を顔に浴びながら、記憶の蓋を閉める。
考えすぎだ。そうだろう?
そう自分に言い聞かせた。
夜の水源荘はそんな川野をまるで出迎えるかのように佇んでいた。
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