異喪裏-イモリ-
椎葉伊作
第1話 水源荘
「ここか・・・?」
川野直人はポツリと呟いた。
春の気配など感じられない冷たい風を浴びながら、スマートフォンを見る。確かにここだ。画面の中で地図アプリは正解をはじき出している。
身を少し震わせながらポケットにスマートフォンをしまい、アパートを見上げた。
古びた外壁の斜め上に水源荘という文字が掲げられている。その周りがひびだらけで、建物の歴史を物語っているようだ。
ふう、と短すぎるため息をついた後、川野は水源荘の正面にまわった。どうやら三階建てらしい。殺風景な廊下から階段への上り口が見える。エレベーターはないらしい。郵便受けの具合からして、ある程度住人はいるようだ。
新生活を始めるには少ししみったれているな、と心の中で少し毒づいた。古いとは聞いていたが想像していた古さよりもだいぶ古い。
まあしょうがないだろう。社会人の駆け出しなんてこんなものだ。自分にそう言い聞かせて、ゆっくりと水源荘の敷地を出て歩いてきた道を引き返した。
そんなもんさ。頭の中にそんな言葉がじわりと染みついている。
きっと誰しもがそんなものだろう。幼き日に夢をみる。そしてそれを追いかけているうちに熱は薄れ、霞んでゆく。そして遅かれ早かれ、妥協という道を選ぶ。
スタートラインに立っているのに、何の変哲もないあぜ道を前にして構えもせずに立ち尽くしているようだ。
そんなことを思いながらとぼとぼと道を歩いていくと、ふと思い出した。そうだ。ベランダを見ていない。
立ち止まって振り返った。水源荘は小さく見えるが、どうやら狭いベランダはあるようだ。幾世帯かの洗濯物が干してあるのが確認できる。
よかった、と胸をなでおろした時である。ふと、一か所に目がいった。
「・・・・?」
人だ。小さく霞んで見えるが明らかに人だ。二階のベランダからこちらを見ている。十分に距離があるはずなのに、なぜか自分を見ているとわかる。
目が離せない。なぜだ。背筋がわずかにうすら寒くなるのを感じた。身に浴びている冷たい風のせいではない。
ベランダの人物はまったく動かずにずっとこちらをみている。なんてことのない景色のなか、その一点だけがじとりと異質でいた。
喉から声にならない声がぬらりと這い出ようとしたとき、急に強い一陣の風が吹き抜けた。
思わず身じろいだ。その勢いで服を押さえていると、プシューという音が響く。
バスだ。市バスがバス停に停車している。風はおそらくこれによるものだろう。中からぞろぞろと学生が降りてきた。連れだって降りてきた学生たちは、にぎやかに話しながらいくつかに散らばっていく。
緊張の糸が切れたと同時に、日常に戻ってきたような安堵が川野を包んだ。
そうだ。あれはどうなった。先ほどまで自分を襲っていた異質の方角を振り向く。
水源荘の二階のベランダ。小さく霞んでいるがしっかりと見える。だが先ほどの人物はいなかった。誰もいない。洗濯物がひらりとゆれている。それだけだ。何もない。
まるで日常という皮をかぶったように、水源荘は存在していた。
「・・・・・」
なんだか腑に落ちない。つい先ほどまでのことだというのに、異質は姿をくらましてしまったようだ。周囲すべてがいつも通り、すなわち寂れた日常だった。
そんなもんさ。またそんな言葉が頭に染みつきなおした。
そうさ。そうだろうよ。
心の中でそう呟いた後、川野はまたゆっくりと自分を歓迎した寂れた日常の中へと歩いて行った。
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