Spring Journey
東京都大田区、旧天空橋駅付近。
羽田空港敷地が東京二十三区民向けの移住船の発射場として接収されて以降、この地にはその玄関口となる建物が急ピッチで建設が進められていた。日本で最初の出発が先日に行われついに一般人に開放されたこの建造物は、ここ一週間の間、最初で最後の仕事を順調に稼働させ続けていた。
今日は明日香たち清沢女学院の学生を含む新宿区民が、二十三区で最後の出発を飾る日である。
「わー、すご! めっちゃ綺麗!」
子供に戻ったかのようにはしゃぐ朱音。
惑星移住事業の看板として建てられたこの建物の内装には、近未来的な意匠がふんだんに取り入れられている。地球滅亡が決まってから新しく建てられたランドマークになりうる建造物など当然数少なく、普段古ぼけた建造物ばかり目の当たりにしていた彼女たちにはとても新鮮に映っていた。
「も~待ってよ~。そんなにはしゃぐと危ないよ朱音」
追いかける明日香は、手ぶらの朱音と対照的に大きな荷物を背負っていた。
明日香の声を聞いた朱音は駆けて戻ってくる。
「てか荷物多くない? どっか行くの?」
「まあね。後でいろいろ必要になるから実家から持ってきた。そう言う朱音はめちゃくちゃ軽装じゃん」
「持ってけないんだから仕方ないでしょ。旅立つ方が手ぶらってのもおかしな話だけどね」
言いながら朱音は両手を広げて顔の横で振る。
明日香はそんな朱音にクスッと笑い、ふと横を見た。
見晴らしの良いガラスの向こうに、高さ一キロメートルはあろうかという巨大なロケットとその発射台が立っているのが見える。
「……ねぇ」
「ん?」
ふと明日香は無意識に呼びかけ、そして我に返る。
「……いや、何でもない」
「何? 急に残るのが不安になった?」
「んー、そういうわけじゃないけど」
移住前の一時帰宅を経て久々に会った明日香の表情は、覚悟だけで塗り固められていたかつてのその表情は、憂いを帯びる綻びをわずかに生み出していた。
———こんな直前に、そんな表情しないでよ。
「ねぇ、ちょっと外さない?」
「えっ、でも出発時間までそんなに時間ないよ」
「いいから」
そう言い、朱音は明日香を施設内の喫茶スペースへと連れていく。
喫茶スペースには、搭乗の順番が後半である住民が未だにちらほらといた。
この喫茶スペースも、この日のためだけに作られたものだ。
もちろん空港の喫茶店などと違ってここで勤務する人がいるはずもなく、また金銭の授受もなく、「どうせ捨てていくのなら」と各食品会社から寄付された食材が自動の機械を介して提供されているだけの空間である。
朱音は明日香を手近な席に座らせると、コーヒーを二人分設置端末から注文し、出てきた二つの紙コップを持って戻った。
「……ありがと」
そう呟くと、受けとった紙コップから一口コーヒーを啜る。
「久しぶりに会ったと思えば、どうしたの?」
「…………」
「私が心配?」
そう言い笑う朱音の顔には、以前のような弱弱しさはどこにもなかった。
「私はもう、あの日に覚悟したからさ」
明日香が何も言わないまま、朱音は続ける。
「そりゃ新しい星で不安はあるし、残る明日香が心配ではあるけどさ。それでも、死なずに後で会おうって約束してくれたから、だから私も明日香の決意を尊重しようと思った」
「……うん」
「私はいつも夢を追い続ける明日香が好き。大好きな明日香のためなら一人でも頑張れるし、いつまでも待つよ。だから……お互い信じて笑顔で送り出そうよ」
「そう……だね」
「ほら、そんな辛気臭い顔しない! 今日まで全然会えなかったし、これからもしばらく会えないんだからさ、最後ぐらい笑顔で、ね?」
そう言って笑う朱音の目にも涙が一筋伝っていった。
それを見た明日香も思わず涙を流す。
『まもなく、新宿区F地区住民の搭乗を開始します。住民番号F一〇〇〇〇一番から……』
人目を顧みず喫茶スペースで二人が抱き合って泣いた時間は、やがて無機質なアナウンスによって終わりを迎える。
「じゃあ、行ってくるね」
「うん、行ってらっしゃい」
その言葉を交わし合い、二人は決別を終えた。
先ほどまであんなに混みあっていた施設内は嘘のように人気がなくなり静まり返っていた。
移住予定の全員が搭乗ゲートを通過し、だだっ広いロビーには明日香しかいない。
一応は現時点で移住をしない者が見送りのため来ることも想定されこの施設は建造されていたが、今日以降東京中のインフラが停止してしまい帰りの交通手段の確保が難しいため実際に見送りに来るものなど僅かだったのだ。
『ただいま全住民の搭乗手続きが完了しました。移住船の発射までもう少しお待ちください』
機械音声によるアナウンスを聞く者は明日香しかいない。
明日香は屋上に移動する。
すっかり日の落ちた昏い空の向こう、遠近感が狂うほどの巨大な移住船が出発を今か今かと待っている。接収した羽田空港敷地をフルで活用し鎮座しているその巨大建造物は、自分の生まれた星を離れ生きようとする人間の傲慢さの象徴のように威厳を放っていた。しかしそんなバベルの塔に対して明日香は冷めた目線を投げかける。
「……小さいな」
呟いたや否や、また機械音声がスピーカーから響き渡る。
『まもなく移住船が発射します』
機械音声がカウントダウンを読み上げるのを明日香は無感情に聞いていた。
『ゼロ』
日の出と見まがうほどの光が、暗かったはずの東の空を包んだ。
移住船の巨体が徐々に、重力に逆らって宙に浮かび始める。
大量のガスを吐き散らしながら、一キロメートル大の摩天楼はまっすぐ空を裂くように登っていく。
やがて船体そのものが見えなくなり、その軌跡だけが飛行機雲のように残されると、元通り静かで暗い空が広がるのみとなった。
それからしばらく経ち、明日香は室内へと戻る。そのまま一言も発することなくエレベータに移動すると、最も地下のフロアのボタンを押した。
五分ほどエレベータが地下へ進み続ける間も、終始無言で明日香はシャフトに取り付けられた光が上へと飛んでいくのをガラス越しに見ていた。
エレベータがやがて止まり正面のドアが開くと、真っ暗だった目の前の空間に僅かに明かりがともり、足元には道を示すように赤い案内灯が灯る。
やがて地下にあるとは思えないほどの広さの空間の全容が現れた。見渡す限りの壁は六十センチ四方の正方形で区切られ、格子状に規則正しく敷き詰められたそれらの間にはレールが張り巡らされている。
明日香は床に停止しているリフトに乗ると、その上にある端末を操作する。パスワードを要求されたので、暗記していた文字列を入力した。
するとリフトが動き出し、張り巡らされたレールに沿って縦横に動く。最短距離で壁のある位置まで到達すると、やがて停止した。
明日香がもう一度端末を操作すると、引き出しのように壁がゆっくりとせり出す。
上面がガラス張りになっているその箱の中には、棺桶のように一人の少女が横たわっていた。
「ごめんね、朱音。臆病なのは私の方だった」
語りかける明日香の声にも、箱の中の朱音は眼を閉じたまま答えない。
そこに残されたのは、文字通りの抜け殻だった。
人間の寿命より十分短い渡航時間でたどり着ける距離に、人間の住める環境の星が存在しない可能性が高い。
そもそも七十億を超える地球人全員を移住先の星に物理的に輸送するのは不可能である。
そういった問題が早々に指摘され、宇宙船のようなものに人間を生きたまま載せ輸送するという最もスタンダードな案は、移住プロジェクト初期に真っ先に潰えたという。
地球が滅ぶことが発表されたその週のうちには、具体的な移住計画は既に発表されていた。
曰く、「魂と身体情報を電子化し、それを保存した超大容量記録媒体をロケットで輸送。移住先の星においてあらかじめ輸送しておいた機器で魂の入った身体を復元する」と。
「あ……当たった」
部屋で朱音がそう呟いたのは、ちょうど一年前のことだった。
「え、マジ⁉」
ベッドの上段から駆け降りる明日香に朱音はスマホの画面を見せる。
『身体保存プロジェクト 当選のお知らせ』とメールの件名には書かれていた。
「すごいじゃん! 倍率五千倍くらいだっけ?」
明日香は興奮気味に言うが、しかし尋常ならざる倍率を勝ち抜いた朱音本人は浮かない顔だった。
「うーん、でも抜け殻を大事に保存してもらっても結局すぐ地球ごと消し飛ぶからあんま意味ないしな……」
逆にここで運使っちゃってもったいないかも、と朱音は苦笑する。
「まあ魂抜かれて即身体焼却、よりはずいぶんマシなんじゃない?」
「まあねー。いくら大量の人を移送するためだからって、そんなの尊厳がなさすぎるよ」
そう言って朱音は布団の上に倒れこむ。
「……この身体のまま移住できる権利だったら良かったのに」
朱音は明日香の方に向き直る。
「そういや明日香は当たらなかったの?」
「五千倍だよ? 当たるわけないじゃん」
「そりゃそうか。じゃあ私だけこの身体のまま移住できても意味ないね」
朱音が呟いてこの日のこの話題は終わった。
後日どこから聞きつけてきたのかもわからないマスコミが取材に来たときも、朱音は表向きは嬉しそうに振舞っていたが、それが本音でないことは明日香にはわかっていた。
「朱音は偉いよね、ちゃんと一人で覚悟決めて、こうやって移住したんだから。私なんかよりよっぽどすごいよ」
明日香の涙がガラスの上に落ちる。
魂だけ抜き取られた身体は特殊な生命維持装置によって保たれているが、しかし二度と起き上がって活動することはない。
魂だけを移住させるという移住プロジェクトの概要が発表されたとき、当然のように世間では反発が起こったという。
時間的連続性を保たずに鋳造し直した身体で生きる自分は果たして自分と言えるのか。似たような思考実験を思い出す人間は多くいただろうが、急に自分が当事者と化した場合にもはっきりと前と同じ結論を出せる人間は少ないだろう。
結局はこの方法しか滅びから生き残る術がないため皆受け入れるしかなかったが、その実移住に恐怖を感じていた人間は少なくなかった。普段気丈に振舞っていた明日香もその一人だ。
明日香が地球に残留したのはもちろん夢のためであるが、理由はそれだけだと断言できるほど彼女はできた人間ではなかった。燻り続けていた移住への恐怖を、夢を理由に先送りしただけだ。
「ありがとうね、こんな私に憧れてくれて、私の夢を応援してくれて」
ガラスの上に落ちた涙を拭い、もう一度明日香はちゃんと朱音の顔を見る。
そして約束を思い出した。私は、夢を叶えなければならない。でなければ、魂だけの存在となって宇宙へと旅立った親友に申し訳が立たない。
涙はもう出ていなかった。
「さ……ってと。そろそろ行こうかな」
明日香は立ち上がりだだっ広い空間の中で独り伸びをする。
「じゃあ、行ってくるね」
当然応える声はない。
明日香がリフト上の端末を操作すると、ガラスの生命維持装置が壁に向かって閉じていく。
二度目の決別を終えた彼女はリフトを降りると地下フロアを後にした。
外に出るとすっかり空が暗くなっていた。
時間は二十三時を回っている。『搭乗』を同時並行に数百人以上行えるだけの施設がこの建物にはあったが、さすがに数十万人いる新宿区民全員に対してそれを行うとなると、朝早くから開始したとしてもこの時間になってしまう。
新宿区民の搭乗によってすべての東京二十三区民が新星へと出発し、東京都の人口は以前に比すればほぼゼロ人に近いものとなった。
そのせいか、夜空に輝く星がいつもよりよく見えると明日香は思った。
そのまま明日香は建物に隣接する道路に停めてあった車に乗る。移住者全員分の車を停めることのできるスペースは捻出不可能なため、移住者は全員最寄りの乗り場からここまで専用の輸送艇で来ることになっており、最初からこの建物には駐車場が用意されていなかったのだ。
車に乗り込んだ明日香は電源を起動させて、端末のタッチパネルに経由地と行先を入力する。すると車はひとりでに動き出し滑らかな走行を始めた。
「本当にすごいな……。いくらしたんだろう……」
明日香が地球に残留し会いに行く意思を父親に伝えた数日後、明日香のもとに納品されたのが父親名義で購入されたこの車だった。
移住が遅れる人間や地球に残留する人間のために各種インフラを維持する必要があり、そのために世界中で発達した各種オートメーション技術の最高峰を集め作られたのがこの車なのだという。
おかげで自動車免許を持っていない高校生の明日香でも安全に移動ができるというわけである。
「結局この旅も父親に甘えてるだけなんだよなぁ、私って」
運転席をオミットし広々と確保された居住空間に明日香は寝っ転がって呟いた。
そしてスマホを開き、父親からの最初のメールを見返す。会って話したいと言う旨の文の直後にその一文は書かれていた。
『やっとお前の期待に応えられそうだ』
その真意を、明日香はまだ知らない。
———7月31日 地球滅亡まであと274日
『弊星最後の夏』に続く
弊星最後の一年 睦井総史 @MutsuiSouji
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