第20話
いろいろあった一日を終えて自宅に戻るとほぼ日付前の時刻だ。明日は10時出勤を言い渡されたのでこんな日は早く寝るに限る。
部屋に入ればいつもと違う気配がする。総一郎の使うシャンプーの香りがかすかにすることからああ、来ているんだなと思う。
「お帰り」
リビングから出てきたのはパジャマ姿の総一郎で、やっと靴を脱いだばかりの楓を抱きしめて玄関の鍵を確認した。
「ただいま、総一郎さん?」
「ん、気になったから。お風呂に入ってこい。お湯、ためているから」
総一郎と楓はお互いの部屋を行き来することはあるが、それは殆どが週末や休みの日の前日である。こんな週半ばにお互いの部屋を訪問することはあまりない。最近、増えているが。
「何かあった?」
「いや。最近相手してくれないから拗ねているだけだ」
その言葉に噴き出す。確かに、お互いの出張と多忙さに部屋を行き来していないし、デートもままならない。
「成分補充しないと枯れる」
その言葉に楓がくすくす笑ってしまう。
「暑いから嫌なのかと思ってた」
「先に寝る」
「ん、おやすみなさい」
拗ねた総一郎は容赦なく楓の唇を吸った。お休みのキスには程遠い、官能にあふれたキスで、思わず楓の膝がかくんと落ちそうになる。
「風呂に入るんだろう?」
「そだね」
楓は笑って自分の部屋に入った。
翌日は10時出勤がゆるされているので楓はゆっくり出勤し、総一郎は定時出勤する。それでも楓は忙しいのでフル回転だった。
また、慌しい日々が始まる。
数日後には正式に小坂の入社が決定し、野田はそのことで走りまわっている。入居物件も決まったらしく、不動産屋から良い人を紹介してくれてありがとうと報告があったと聞いている。
来月、深山店は開店を迎えるので倉本を筆頭にした店舗開発担当はフル回転でバックアップしている。チームスタッフも今日は店舗、明日は本部と慌ただしく動いているが、声をかけて意思疎通は基礎基本とばかりに仕事を進めている。
企画担当の総一郎は、開店企画の確認を取りつつ、年末年始の企画を進めている。年明けには決算セールを目論んでいて、こちらの企画も進行中だ。
忙しいなりに、着実に仕事をしているのだ。
全体の進行具合を見ながら仕事を割り振り、声をかけて足並みをそろえるというのは課長の総一郎の仕事ともいえた。
楓はそれ以上に営業全体の仕事を見通しているのだが。両方の動きを見極めながら各店舗や関連部署との調整や確認を進めている。岩根は忙しい合間を縫って、楓が出勤するなり小坂のことで便宜を図ってくれてありがとう、と頭を下げてきた。お互い様です、と笑う楓に照れたようにもう一度「ありがとう」と言い残して仕事に戻った。これで井上と同じくらいの年だとは思えないほどの落ち着きだ。いや、井上の方がバイタリティ溢れて落ち着きがないのか、というのは一般的な評価だが、実は真逆で何かコトがあるとバキバキ動くバイタリティさを発揮するのは岩根で、どんとした落ち着きで構えるのは井上なのだ。それは、よく知っている。
「小林、今不吉なこと考えただろう?」
井上が仕事をしながらそう呟く。
「何のことです?」
「正直に白状しろ。岩根と俺を見比べてにやりと笑うときはとんでもないことを考えているのがお前だ」
「わかります?実は、面白い企画の提案があったのでホワンとしたものを考えているんですけどね」
「企画?」
「柳町店の山田店長からの企画なんです。来年の5月30日にむけての企画案ですけどね、ちょっと前から始動する必要があるかなと」
「5月30日?日付指定か?何の日だ?」
「大掃除するのは12月でしょ?でも今は12月じゃなくて気候の良い時期に掃除しようとか、半年たったから大掃除しようとか、そういう企画と、ゴミゼロの日と引っ掛けて、お掃除用品販売強化月間みたいな企画が立てられないかと提案があったんです」
「ほう」
「各自治体でも、地域の道路や公園や、共有スペースを清掃するクリーンデイなんて日もあるくらいですから、そういうの巻き込んで除草剤から床拭きモップまで幅広く扱えないかなという企画です」
山田から出された原案は、既にほかの店長とも共有されていてこんな商品を売りたいのだが、ということで共同提案という形になっている。
「で、その企画に江崎と長野を参加させたいんですけど、いかがでしょうか」
「え?私ですか?」
当の江崎が驚いた。
「実用目線ということで江崎さんの目線が欲しいんです。長野はファンシーグッズという意味での目線が欲しいんですよね。可愛くて使いたくなるグッズ」
「どういう意味だ?」
「今、話題になっているのは商品のキャッチコピーなんですよね。流行を追いかけるわけじゃないですけど、掃除用品は流行を追いかけて買ったとしても、逆に使いにくかったらすぐに手放しちゃうでしょう?可愛いだけじゃダメなんですよ。で、実用一点張りでもつまらない。企画で立ち上げるわけですから、世間一般の堅苦しい掃除デーのイメージを軽くできたら面白いんじゃないかなぁ、というのが山田からの提案です。で、他店の店長から地域貢献という意味で、この際町内会のクリーンデイ企画に参加して良いかという提案があってですね、調べてみたら日にちは違うものの、各店舗の町内会でゴミゼロ運動の企画があったりするんですよ」
共同提案のファイルを井上に見せた。
「藤堂は知っているのか?」
「やんわりと。ウチの八雲バイヤーはもうノリノリみたいですけど」
藤堂は苦笑しながらそういった。八雲は別の仕事をしながら、しかしその話に絡んでいるよと主張するように井上に手を振った。ある程度の企画は出来上がているということか、と井上は頷く。
「山田を中心にして、きちんとした原案を立ち上げろ。で、見本商品一つか二つ付けて提出してくれ。それを見てから来週か再来週の営業会議に上げる。こっちから提案はしておくが、内容は山田中心に考えろよ。クリーンデイの企画は良いが、こりゃ俺が決済できないから即答は無理だな。どうせなら広域営業と足並み揃えて全店セールの方が良いな。それからなんだこの一文。本社含めてクリーン週間と名づけて会社周辺を15分清掃しますって。タイアップして社内挙げての企画にしたいなぁ。だと?隅っこに書かないで堂々と企画提案しろって言っておけ。そうなれるように、社長に意見を上げておく。リンクさせるのも総務と話さないとな」
「はい、よろしくお願いします」
楓がニコッと笑ってイェイ、とピースサインをする。おそらく、この計画に一枚かんでいるらしい岩根と、八雲をはじめとした数人のバイヤーが楓に対して「子どもかよ」とあきれるような苦笑をよこしながらピースサインを返した。
「おはようございます」
ドアをノックして入って来たのは野田だ。
「おはようございます」
ん?と答えに詰まる。小坂の話はほぼ終わっているはずだが。
「小坂さんの話は弁護士に飛んでるよ。今は総務研修と一般店舗研修期間で元気にやっている。9月1日からここに配属になる予定で、先ほど、社長から承認が降りた」
「ありがとうございます」
「今日は長野君のことなんですが」
当の長野が顔を上げた。
「何か問題があるのか?」
井上はどこ吹く風だ。
「北河専務が一度会いたいとおっしゃっていましたが」
「断る。どうせ九条さんが広域に欲しいって言っているんでしょ?育てたいからよこせって」
楓が即答した。
「よくわかりましたね」
「まだ仕事を覚えていないし、余りにも出来なさすぎの新人だからダメだといっておいて。如月先輩みたいにすんなり育つタイプじゃないですからって」
野田がにやりと笑った。
「即答ですか」
「即答です。基礎基本叩き込んでおかないと、九条さんの下では働けないよ。アノヒト、自分が無茶振りしているという自覚があるくせに、承知の上で無茶振ってくるから始末が悪い。先輩がどれだけ苦労したか」
「お前も相当無茶していると思うが」
「九条さんほどじゃぁありません。あと半年は私が抱え込みます」
「そう言っておく」
「それから、半年後も九条さんには渡しませんから」
「はい?」
井上がくすくす笑った。
「お前、正気か?相手は熱田と九条だぞ?あの二人相手に戦争するのか?」
「しますよ。あの人は広域本部に行きたくてあっさり室長の椅子手放したんですからね。お前がいるから本社はいいだろうって、その言い草はないでしょ?だから期待通りに営業統括本部を組みなおしますよ」
「…井上本部長が陣頭指揮取っているんじゃないんですか?」
野田がそうこぼした。
「あと5年もすりゃ、本部は代替わりになる。熱田や九条たちがトップになるはずなんだが、あの二人がそれはパスと言いやがったからな。だから小林に任せた。統括本部を組みなおして組織編制すっきりさせたら小林は余裕ができるからな。結婚して育休とっても回っていくだけの組織を造れと言った」
「そのための藤堂、岩根コンビですからね。お二人の協力でいろいろ準備ができましたので、これからは本部長と野田課長にご尽力いただきたいです。ちなみに熱田さんと九条さんコンビにも相応のハードな仕事を用意していますので生涯現役で頑張って頂きますよ。広域で暴れまわりたいと言った通り、広域で暴れてもらいます」
「ふふ、それだけのものになっているんだろうな?」
「なってますよ。深山店開店を機に、編成変更のための仕事の移譲を始めたいと思います。年明けに、新編成に移行準備をはじめて、3月からは新体制になりたいです。まぁ、これは私の皮算用ですが」
「俺の予定より半年早い」
「倉本が早くに育ってくれましたし、長野が加入したので人員的には余裕ができました。白鳥も課題を克服できたので、もう安心だということで」
ふすっと井上が笑った。
「ここでその案があると言い放つくらいだ。自信があるんだろうな」
「当たり前です。青写真はできていますので、目を通していただきたいです」
楓はそう言ってにやりと笑った。
「そう言って、課員の目の前に人参ぶら下げるのか?」
「何とでも。私の部下たちはニンジンごときで仕事がおろそかになるような人間ではないので」
そう言い切った楓はにやりと笑った。
井上の頭の中では、もっと効率的に動けるように営業部の組織改変を描いている。楓とも、なんとなくこうする、ああすると話をしているのだ。それがだんだん形になりつつあったのも事実だ。だが、きちんとした青写真にするにはまだ早いと思っていた井上だが、楓はもっと早かったらしい。
時代の波に乗る目は、やはり、楓がピカ一だと思う。
「みんなが楽しめる店、胸張っていらっしゃいませ、って言える店を目指すんです」
楓はそう言って笑った。
定年までまだまだ楽しめそうだが、結婚はいつになるのやら、と、井上は密かに笑った。
いらっしゃいませ、を言いたくて 藤原 忍 @umimado1
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