第19話



「あとは、安全確保だよね。弁護士には野田課長から連絡するんだよね?」

「あ、お子さんいるんだったら保育園とか考えなきゃいけないわね」

「それは、妻の勤め先に付属保育園があるのでそんなに心配しなくて良いことで。いえ、それより、思わずこちらに来ただけで…」

「んー、ウチの連中が面白がってやりそうだよ。とりあえず…野田課長、弁護士さん紹介して。私は避難場所と引越し業者の手配するわ」

「え?ちょっと…」

「岩根課長のオトモダチでしょ?小坂さん。入社するかしないか、そういうこと関係なく、まぁちょっと岩根課長をダシにして仕事をサボるわけだ」

「じゃ、俺も上司公認でサボるということで、えっと、ご家族は?」

「奥さんと保育園のお子さんが一人だってば」

 倉本に突っ込む楓。

「本当に、良いチームワークだよ」

 野田がくすくす笑っている。

「本当に、入社とは別の話で弁護士を紹介するよ、法的にきっちり介入して退職したほうが良い案件だと思うよ」

「すみません、お願いします。何から何まで…」

「いやいや、勝手にやっていることだから。そうそう、奥さんとお子さん、できるなら社宅から離れたほうが良い。何かあると大変だから。実家に避難するとかは出来ないかな?無理なら二三日、泊まれる準備して…」

「そうですね、そう伝えます」

 突然、携帯のバイブレーターの音が響いた。小坂の携帯が鳴っている。

「あ、良いよ、出て出て。俺たちは部屋を出るから」

「…妻からです。今日は休みで家にいるんですが、どうしたんだろう?」

 小坂が電話に出ると、妻の美咲は声は落ち着いてたものの、動揺していたらしい。小坂はすぐに帰るから、落ち着いてくれと言った。

「何があった?」

 切ろうとした電話を野田が止める。

「明日までに社宅を出てくれって。退去が遅れたら退職日以降の賃料を払えと言われたと…」

「退職届を提出したのか?」

「していません。その相談でこちらへ」

「つうか、それ、法的根拠がないから応じる必要はないよね」

「でもこれ、小坂さん家族に身の危険がある可能性だってありますよ」

 倉本がそう言った。

「倉本、小坂さんと一緒に自宅に行って、とりあえず2,3日のお泊り用意させてくれる?同時に引っ越し見積もりかけて。明日退去しろというなら、一時的に荷物運び出してどこかに保管して、ご家族は仮住まいする方向で手配する」

「そんなことできるんですか?」

「問題は人が集まるかだよね。プロに頼むのが一番なんだけど、まぁツテがあるから引越しするのは可能でしょう。良い?小坂さんも奥様も動揺しているんだから二人に運転させちゃだめよ?」

「わかりました」

「ウチの課員にも候補の住宅探すように指示しよう。あと、ウチから一人出す。で、何で倉本なんだ?」

「元引っ越し屋のアルバイトだったんで、荷物の量の見積もりできるんですよ」

「ということだ」

 小坂はかいつまんで妻の美咲に指示を出すと、電話を切った。

「私は…」

「まずは安全確保だろ?ウチのブレーンが動いているんだ、心配ない」

 野田がニコニコと小坂に話しかけた。

「じゃぁ、弁護士に連絡してこよう」

 てきぱきと動く二人に目を見張る小坂。倉本は安心させるように肩を叩いた。

「行きましょう、早く安心させてあげないとね」

 野田がぱっと応接室を出て行った。


 本当にウチの上司たちのチームワークは良いと倉本はふすっと笑った。井上や岩根といった親子ほども年の離れた社員や、野田と青山といったやや年上の社員を相手にしていても、仕事上の絶対的な信頼関係があるからお互いに好き勝手言って終わることが良くある。切り替えが早く、後を引くわけでもないので白鳥はじめ、部下たちは傍観するが、実はひやひやしていることが多い。

 特に、青山の処遇については野田と楓はやりあうことが多い、と倉本は思っている。

 今回のこの大幅人事計画も、青山の処遇に関連していると言って過言ではない。それだけ青山は重用されているのだ。だからこそ、カバー体制を作りたい、青山の「次」を育てたいという思いに慎重になっている。それが店舗開発部にとって、とても重要なスキルアップになることにもつながっていることは自覚していた。だから、「あんな」と称される新入社員の長野を入れたのだ。彼女は、バイヤーとしての目の付け所は普通とは違うのだ。

「岩根さんと今の野田課長が同期って…」

「あ、岩根さんは途中入社だからだよ。年齢は井上部長と同じくらいかな。全然畠畑が違う仕事をしてて、転職組。ウチの会社は転職組みは結構多いから気にする必要ないからね」

「…でも、家は本当に見つかるのかな?引っ越しも…」

「心配ないよ。小林さんは運送業というか、車業界に強いからね。車を使って仕事をする業界にいろいろ知り合いがいるんだ。不動産関係はウチの課員の宇城さんが詳しくて、ネットワークもいろいろ」

「そうなんだ」

「本当に良く集めてきたなぁ、っていうくらい面白い人ばかり。それなりに個性も強いから苦労するけれど、面白い会社ですよ」

 二人が出て行こうとすると、倉本の顔見知りの人事部の佐藤が一緒になり、3人で出て行った。


 野田と二人、営業本部から彼らを見送った。

「弁護士事務所に連絡して、とりあえず小坂君の相談に乗ってもらえるように手配した。会社としてできるのはそれくらいだな」

「まだ内定段階だとそこまでしかできないわよね」

「でもまぁ、岩根が見つけてきた人材だ。手放す気はないんだろう?」

「本人の希望を優先しますが、欲しい人材ですよ?ですから私は勝手に動きます」

「そうかそうか。うん、俺も動こう。知り合いの不動産屋に当たってみる」

 野田はそう言って戻っていった。楓は、長野に大至急井上と連絡を取るように指示を飛ばす。時間を見て、とある訪問先に連絡を入れろと指示を出し、そしてこれは個人的な頼みだから断って良いとして、宇城に顔見知りの不動産屋に物件のピックアップを依頼した。

「今来た小坂さんとか言う人の、ですか?」

「そう。まだウチの社員じゃないから動くのはごく私的なお願い。嫌なら拒否して良いわよ。業務とは全く関係ないし、仕事の評価にも関係ない、私の個人的なお願い」

「どういうヒトなんですか?」

「岩根課長が個人的に相談に乗っていて、自分の携帯番号教えるくらいの仲。課長本人と連絡取れないし、動けないから私が動いているだけ」

 この言葉に、課員が楓を見据えた。岩根の交友関係に楓が介入することはない、ということは、次に考えられるのは岩根が個人的に接触している「仕事関係の人」ということになる。

「つまり、確保したい人ってことですか」

「うん、『床材の君』ったら分かる?」

 その有名な話をわざわざ口にすることはない。あだな一つでそれだけで通じる。

 宇城が顔を上げると、他の課員が頷いて、それぞれ知り合いの不動産業者に電話をかけ始めた。

 親子三人が暮らせるセキュリティのしっかりした物件を探すように条件を付けての物件依頼だった。


 長野は井上とのコンタクトに成功し、楓は一連の事と現在の状況と動きを報告する。井上は面白そうに笑って京都土産は何が良い?と聞いてきたので生八つ橋だと答えておいた。井上が土産を買ってくるということは相当怒っているらしい。予定を早めて帰るという井上の一言に反対はできなかった。

 しばらくして、野田が顔を見せた。

「社宅引越しの立ち合いは弁護士事務所の事務員さんが立ち会いたいと言っているんだが、手配ついたのか?」

「ん、港南引越センターが請け負ってくれた。今日の午後3時から荷物運び出しに着手して、正式に引っ越し先が決まるまで荷物を預かってくれるって。他の作業の後の引っ越しだから遅延すると午後5時開始になるかも、って条件付き。私の所に連絡が来るから、ひとまずご一家の仮住まい準備しなきゃ、なんだけど」

「二日三日の宿泊ならホテル…なわけにいかないか」

「ホテルに数泊して、仮住まいで家を見つけることになるだろうな。奥さんの通勤事情は分からないが、一応女子寮に空きがあるので一部屋押さえておいた。最悪の場合は一時的にそこに住んでもらうか」

「既婚者とはいえ、男性が出入りするわけだから、それは避けたい。ウチの社員は事情が事情だから許してくれるだろうけど、それに甘えるのは会社としてどうよ、って話だよ」

「そうなんだよなぁ。セキュリティがしっかりしてて、親子三人というのは…ホテルか。寝泊りだけなら心配ないが、子供さんは落ち着かないよな」

「今返事待ちなんだ。もう少し時間が欲しいかな」

「あ、そうなんだ。しかし腹が立つな」

「本部長がお土産何が良いかって聞いてきたよ。相当怒ってる」

「コワイコワイ。岩根課長は?」

「メールで報告は入れておいた。返信はなし」

「ああ、山か」

「予定では携帯は会社用と個人用の2台持っていくってことだから、電波が入れば連絡が入るだろうから心配ない。念のため、奥様の携帯にも連絡入れたし」

「え?奥さんの携帯って…、小林、お前奥さんと仲が良いの?」

「個人的なお知り合い。仲良しさんですよ」

 そう言いながら各課員の所には既に不動産屋から何件かの連絡が来ている。手持ちにそう言う物件がないという連絡から、いくつかあるという返事まで様々だ。

「そうか、お子さんの保育園の関係も相談しないといけないのか」

「…職場付きの保育園だと言っていたから、まぁ大丈夫だと思うよ。それは小坂さん一家の問題だよね。一時的な仮住まいは選択の幅がないから。ともかく、だ」

 と言っていると、楓の携帯にメールが入った。相手からは昼休みに電話する、というメールではあるが、同時に依頼しておいた「宿」の話については了承の連絡だったので一家の当面の宿を確保した。

「よし、仮住まい確保」

「おい?」

「平里の幹線道路で私の友人がキャンピングカーを販売しているんですがね、渋沢モータースという販売店」

「知らんな…」

「キャンピングカーの宿泊体験というのができるので、仮住まいにはもってこい」

「は?」

「販売店の奥には友人と旦那と、幼稚園の双子が住んでて、ジジババも同居しているんですよね。商品が車だけに、セキュリティは厳重だし、ババは近くの道場の空手師範、旦那は現役の警察官。ジジは引退したけど、元弁護士。結構良い物件だと思う」

 ニンマリと笑った。

「ナニソレ」

「誰かが怒鳴り込んできても、対処は出来るよ。その話し込みでOK取ったから」


 ばたばたとはしたが、その後落ち着いて本部業務をあれこれとしていると倉本から家族できちんと話ができて、数日分の宿泊荷物をまとめたとの報告が入った。一度本社に妻子を連れてきてから、妻子は渋沢モータースに、小坂本人は本社で弁護士と話をするとのことだった。

「よっし、安全確保」

「倉本君、向こうを出たって?」

 野田がそう言いながらやってきた。

 その後ろから、ロマンスグレイの渋い男がついてきている。

「うげっ」

「お父様には聞かせられない言葉ですね、お嬢様」

 楓がピキンと固まっている。渋い男の声に、本部内が少しだけ緊張する

「だからここでお嬢呼びするなと何度言ったらわかるんですか、深尾さん」

 楓をお嬢様呼びするなんて、と白鳥が目を白黒させた。

「私は仕事で呼ばれましたからね。宇佐美法律事務所から来ました、深尾忠之です。担当の金沢が夏休みで不在ですので今回は私が」

「つか、労働関係は深尾さんの方が専門でしょ?」

「金沢は民事契約が専門ですからね」

「後で領収書回すから引越し費用を向こうに請求させてね」

「当然です。あらましは野田課長から聞きました。で、当の小坂さんは?」

「奥さんと子供と一緒にこっちに向かっています。安全確保のために、家にはいない方が良いだろうという判断で誰とも接触させていないんです。倉本は若いですが、そういうところ、デキル人間なので」

「なるほど。で、お嬢はそれだけで彼をつけたんですか?」

「彼、割合子供から好かれるから。それだけよ」

 いやいや、絶対にそう言うセレクトはない、と課員は腹の底で思う。倉本は人当たりは柔らかいし、ほわほわしてひょろっとした外見なのでどちらかというと坊ちゃん印象だが、実は体は鍛えてあるし武道有段者でもある。ここぞというときの決断も的確で、いざというときの「大魔神」ぶりは岩根が一目置く。

 何より、交渉事にはこれだと悟られないくらいの「にっこりにこにこ」笑いができいる男である。

 だから、深山店の常駐スタッフという位置をつけることができた。週に何度か本社に顔を出す以外は現場で仕事をしていたのだが、工事現場の男たちとワイワイやりながらも「ここ」ということは譲らないのだ。何時だったか、倉本の前で男たちが取っ組み合いの喧嘩を始めた時、そこに飛び込んで止めたのは有名な話だ。

 以来、現場の人間からの信頼は厚い。最も、それを見ていた井上も楓も顔色を変えずに「ご褒美はドーナツとソフトクリームとどっちが良いか」と問うたが。

「なるほど、お嬢の目にはそう映っているわけだ」

「ドーナツとソフトクリームに目がない男の子ですよ、彼は」

 にっこりにこにこ、と楓が答える。

 深尾が逆にニッコリニコニコと口元を緩めた。

 ひそかなやりあいに課員が怖い、と思いつつこちらもにこにことやり取りを見ながら仕事をしていた。

「先生、水面下で蹴飛ばしあってどうするんですか」

「大丈夫、どっちの足も届いてないから。御挨拶みたいなもんよ。で、引っ越し費用の請求ができるなら、家賃補助の不利益分を請求できるんですかね?」

「というと?」

「転職後は研修扱いになって、家賃補助が本採用よりも減額されるんですよ。賃貸のモノにもよりますが、1か月の最大差額2万円、ですかね」

「請求できると判断しますが」

「いただけるものはいただきましょう」

「で、賃貸物件はもう決まっているんですか?」

「話しはこれからですけど、物件のピックアップははじめていますよ」

 課員が物件リストを楓に渡した。

「あとは小坂さんの考え次第です。ここから選ぶのか、はたまた違う物件を選ぶのかはご自由に。7、8軒ありますね、小坂さんちの決断次第ですけど」

「そうだな、それは彼に提示して決めてもらおう」

「で、今晩はどうするんですか?ホテルですか?どこか手配されているんですか、お嬢様。セキュリティのシッカリした場所でないといけないので、場合によっては私から手配いたしますが」

「それが意外なところで驚いたんですよ」

 野田がそう言った。

「意外?ホテルじゃなくて?」

「渋沢が受け入れるって返事をくれたの。電話で事情を説明して了承取れたから」

「はい?」

 深尾が素っ頓狂な声を出したが、いやいや、と首を振った。深尾がいろいろ懸念して宿泊先を選ぶよりも安全ではある。何より、渋沢が楓の依頼を引き受けたというのならこちらとしてはいろいろ都合が良い。

「あそこなら多少騒ごうが何しようが子供には天国だもん」

 あまりにものほほんと話す楓に、本当にそれだけなのかとうがった見方をしてしまう。子供が騒いでも大丈夫な「隠れ家」というだけではないだろうが。

「確かに、あそこならセキュリティも何も心配はいらないでしょうね。どこまで了解を取ったんです?」

「一応、ジジババまで。ただし、小坂ご夫妻には話していない。何にも話していない。話すつもりもないから。ただの私の友人。渋沢もそのほうが良いだろうと言うことで。期間は新居引越し終了まで。勿論、夫妻が同意しての話だし、会社や私が強制するつもりはないです。体験宿泊なので食事は自炊です。材料その他、使用方法やらのサポートもしてくれますし、近くにスーパーがあるので持ち込みも出来ます。施設を使用するので費用も発生しますが、この費用は向こうに請求するの?後で指示して下さい。小坂ご夫妻に請求する場合はトモダチ価格と言うことでかなり割り引きますって。まぁ、向こうに請求するつもりだけどね」

 その通りだ、と深尾は頷く。

「一番怖いのは、向こうさん、ですよ。こういう強引なやり方をするのは警戒対象と見て間違いないかと判断していますが、どうでしょう?」

「向こうの出方しだいです。まぁ、許しませんが」

「怖いなぁ、深尾さんのその笑い」

「いえいえ、お嬢様ほどではありません。あのお方にサラリと話をしてしまうなんて。平里に話を通したなんていうのは、まぁ、かわいそうに」

「とにかく、よろしくね、センセ」

「一つ、聞きたいんですが」

「はい」

「渋沢のお嬢さんと知り合いと言うことは、車つながりですか?」

「あー、ごめん、船の浜ちゃんつながりだから、正式にはご隠居つながり?ウチのジジと渋沢のご隠居が釣り仲間だったとかで、小学生のときにさ、随分可愛がられたわけだ」

 そっち繋がりか、と深尾は頭を抱えた。深尾からすれば釣り仲間からのつながりということだが、釣りをしない楓がどうして釣りメンバーを知っているのかと言う繋がりは謎だ。ご隠居と呼ばれているのはもう鬼籍に入っている初代渋沢モータース社長で、楓からすると限りなく祖父と言うよりも曽祖父と言う年齢の男だ。彼と楓の祖父が歳の離れた遊び仲間だったらしい。

「引越しの手配も付いたし、大丈夫ですよ」

 楓はそういった。

「それから、野田からも話を聞いたかと思いますが、小坂さんがウチの会社を望めば、当然それ相応の待遇で迎える準備はあります。ですが、深尾さんを紹介したり渋沢に連れて行ったり不動産業者を紹介したりしたのは、あくまで小坂さんの知人であるウチの岩根が動けなかったから私たちが勝手にやったことで、会社や業務とは関係ないですからね」

「心得ております。で、当の岩根課長は?」

「休暇中で山登り。念願の山に行っています」

「山、ですか?」

「電波が届けば連絡してくるでしょうが、何しろ山ですからね。衛星電話ではないのでアテにはなりませんからね。そのおつもりで」

 というわけで、小坂がいないところでどんどん話が進められた。

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