Day 4 いまこのときの幸福を

 リアナをベッドに寝かせたフィルは、階下におりていった。彼女が起きるまでに、家事を済ませておこうと思ったのだ。

 朝稽古の前にざっと掃除を済ませていたので、あとは洗濯と庭仕事と食事の用意ということになる。たぶん、一刻もあれば終わるだろう。そのあとで、ヴェスランに買い物を言づけて……。


 洗濯をすませて庭に水を撒いているところで、ロレントゥスが通りかかった。竜騎手たちの交代の時間なのだろう。

「ご苦労さま。お茶でもれようか?」

 柄杓ひしゃくを持ったままで声をかけた。「じき、水まきが終わるけど」


 金髪の、美貌の竜騎手ライダーは、立ちどまってぎろりとねめつけた。春ののんきな午前中には似合わぬ形相ぎょうそうだ。

「〈ウルムノキアの救世主セイヴィア〉が、今度は庭師の真似ですか?」

「小さな家なんだから、誰かがやらないと」フィルはこともなげに言う。


児戯じぎだ、こんなものは。貴殿あなたのやっていることも、この家も」ロレントゥスは吐き捨てるように言った。

「剣の代わりに柄杓を持とうが、生き方は変えられない。それを許している上王陛下の惰弱だじゃくさにも腹が立つ。あなたがたは、繁殖期シーズンの神聖な務めを馬鹿にしている」


「なるほど。それがライダーたちのものの見方か」

「否定なさらないのか」ロレントゥスは、苦虫を嚙み潰したような顔になった。

「〈竜殺しスレイヤーフィル〉、〈容赦なきハートレスフィル〉とも呼ばれたお方が――あなどられるがままとは」


 フィルはまばたきをし、口を開いた――ように見えた。だが次の瞬間、視界の端で柄杓が動いたかと思うと、鼻先に小刀ナイフが突きつけられていた。

「――フィルバート……卿」

「……」

 ナイフ越しに二人の視線がぶつかり、気迫負けしたロレントゥスは敗北を察して目線を下げた。表情と、わかりやすい柄杓の動きに気を取られてナイフに気づかなかった自分の負けだった。ナイフがすっと下げられ、かわりにフィルバートの左手が差しだされた。

「手を」

 出せとうながされ、ロレントゥスはおそるおそる手のひらを上向けた。フィルバートがぱらぱらとなにかを落とす。

 そこには、長衣ルクヴァのくるみボタンが載っていた。前列にならぶ、八つほどのすべてのボタンが。


 脂汗のにじむライダーの美貌に、フィルはそう声をかけてやった。 


 ♢♦♢


 フィルは再び、台所に立っている。


「……それで、キーザイン鉱山への視察は、延期せざるを得なくなったわけ」

 温かいパンをちぎって食べながら、リアナは事の次第を説明していた。屋敷に戻ってきてすぐに寝てしまい、起きたのはついさっき。いまは昼を過ぎて八つの時(午後二時)あたりだ。


「陣中見舞いの名目が立つには、三~四日は間が必要でしょ。あちらには六日後と伝達したわ」

 それでは、移動日を含めてもあと五日の猶予はあるわけだ。フィルは内心で胸をなでおろした。彼女と過ごせる、大切な五日だ。


「それから、ついでに城から侍女と男手を借りてきたわ」

「ありがとう」

 リアナの配慮はありがたかったが、同時にすこしばかり残念でもあった。二人きりの、水入らずの家という前提がだんだんとなし崩しになっているから。すでに竜騎手は配備されているのだから、しかたがなくもあるのだが。


 フィルのやっていることを児戯と断じた、ロレントゥスの言葉を思いかえす。かれらになんと思われてもかまわないが、リアナもそう思っているのだとしたら辛い。

「あなたの世話をしたり、二人で食事を作ったり、そういうのがやりたかったんだけど……これはやっぱり、おままごとプレイハウスかな」

 フィルは口もとに憂いをにじませた。「俺には、ふつうの生活がどんなものなのかわからない」


 ぬかるんだ塹壕ざんごうで前線の合図を待つことや、セーフハウスを転々としながら敵の情報を探ることは、たぶん、生活とは言わないだろう。フィルバート・スターバウは平穏な暮らしがしたかったわけではなく、ただリアナに付随ふずいするものが欲しかった。しかし、それは竜騎手たちから見れば真似ごとに過ぎず、英雄のお遊びが滑稽こっけいにも歯がゆくも思えるのだろう。


「おままごとでいいんじゃない? これは、あなたとわたしの結婚生活よ。誰かとおなじにする必要なんてないわ」

 リアナは彼を座らせ、その上に腰かけた。スミレ色の目が彼を見上げている。

 膝の上のやわらかな重みが、フィルにはまばゆい幸福に感じられた。たった一日でも、彼女におなじ幸福を返せたら。


「パンを焼いてもいいし、二人でシーツを替えたっていいの。誰にも文句は言わせないわ」リアナはそう言う。

「でも――」

 それはただのなぐさめだ。だって、もし彼女が本当にそう思っているのなら、城から使用人を連れてくる必要はないのだから。

 そう、フィルが口にしようかどうかためらっていると、リアナの指が唇をふさいだ。

「でも」と、彼女はさえぎった。「これから五日間は、あなたに家事をする暇はないと思うわ。だから彼らをつれてきたのよ。あなたの仕事は……」


 ささやかれる言葉に、フィルはハシバミ色の目を大きくひらいた。彼女の腰にまわした腕に力がこもる。リアナは、彼の肩にかかる調理用のリネンを取りはらい、意味ありげに撫でた。

「あなたはこれから、わたしとベッドの上にいるの。いまから出立の朝まで、ずーっとよ」




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