Day 4 本当に、こんなはずじゃ
耳もとにかかる、彼女の息がくすぐったい。
「薪みたいに固くなってる」
そんな言葉を耳のなかに吹きこまれては、フィルの鋼の理性も限界だった。
場所なんか、もうどうでもいい。誰が聞いていても構うものか。この階じゅうに響くほど、声をあげさせてやりたい。
だが、荒々しくリアナの腰を持ちあげたとき、彼女がはっと身をすくませたのがわかった。
「ダメだよ。あなたがためらっても、もう止められない」
息を弾ませながらささやくと、「違うの」と返ってきた。
「ねえ、フィル、誰かがこっちに」
「しーっ、黙って」フィルの耳に入っているのは、彼女の声のほかには二人のせいでばしゃばしゃとうるさい水音だけだった。
「だけど、〈呼ばい〉が」
「誰も来ませんよ」
「いま。たぶん
フィルの顔に雷雲のような暗い影が差した。ハートレスである彼も、ようやく足音を拾ったのだった。「――本当だ」
「陛下! 閣下。申し訳ありません」
扉の向こうから声がかかった。「その――ご入浴中のところ」
フィルは嫌々ながら、「どうぞ」と言って扉の前に立った。
そこにいたのは、金髪のライダー、ロレントゥス卿だった。〈竜殺し〉の不興を買うとは、つくづく間の悪い男らしい。
「フィルバート卿。あの、服を」
「お気遣いなく」フィルは低い声で言った。
王の近くで働くライダーの多くは、デイミオンのせいでこういった状況には慣れさせられている。が、ロレントゥスは多忙のハダルクの代わりについ最近、
「エンガス卿から火急のご連絡あり、キーザイン鉱山で崩落事故があったとのことです」
ロレントゥスは、ちらちらと〈竜殺し〉のほうをうかがいながら報告した。
「なんですって!?」
リアナは目の色を変え、ざっぱと浴槽の端に寄っていく。フィルがさりげなく浴布をかけて、彼女の裸体をほかの男の目から隠した。
「視察の直前に? まさか、わざと事故を起こしたんじゃないでしょうね」
「事故の詳細もまだつかめていませんので、そこはなんとも……」
すぐに第二、第三の報告が続いた。リアナのほうは、もうすっかり王の顔になっている。フィルは大きなため息をついて二人分の服を取りに戻った。
♢♦♢
そういうわけで、また何ごともない朝を迎えてしまった。
フィルバートはどんよりと沈んだ気分で、日課の訓練をこなした。いつもよりもセット回数を増やしたのは、早く起きすぎてしまったせいだ。リアナのいない寝台に寝ている必然性が思い浮かばない。
――エンガス卿は、やっぱりどこかのタイミングで始末しておくべきだったな。
そんな物騒なことを、薄暗い顔で考えている。たぶん、アエディクラに
昨晩。報告を受けたリアナは、その後情報収集のために城に残ると言いだし、フィルを置いて執務室へと戻っていった。頬に軽いキスと、「朝には帰るから、家で待っていて」という体のいい追い出し文句とともに。
嵐が来れば、はりきって直撃にそなえるのがリアナ・ゼンデンという女性だった。こうなったら、もう彼女の頭のなかには崩落事故のことしかなく、フィルにできることはなにもなかった。
もの憂い顔で邸内にもどり、パンでも焼こうとキッチンに向かった。生地は起きぬけに仕込んであって、コンロ脇に置いておいたから、ほどよく発酵も進んでいた。ふっくらとなめらかに膨らんだ生地を揉んで空気を抜いていると、昨夕の肌の感触を思いだしてしまう。白い肌が桃色に上気して、指がしずむくらいに柔らかくて……。
ここまで待ったのだ。彼女の準備ができるまでという理由なら、もう少し待つくらいはなんでもない。そのつもりだった。待つつもりだったけど。
でも、これはぜんぜん違う。
リアナがせっかくその気になってくれたのに、焦って失敗したり、予期せぬ
本当に、こんなはずじゃなかったのだ。
「はぁ……本当にうまくいかない……」虚空にむかって、つい愚痴を呟いてしまう。「あと一日で、彼女は外遊に出てしまうのに」
もちろん外遊には同行するが、いまのように二人っきりで水入らず、とはいかないだろうし。……
と、そのタイミングでノッカーが鳴った。フィルが手をぬぐって玄関ホールへ出ると、すでに竜騎手が扉をあけているところだった。その後ろから、眠たげな顔でリアナが入ってくる。
「ただいま」
「お帰り」
よほど忙しかったのか、まだ昨夕のドレスのままだった。細い背中に腕をまわすと、リアナが彼の肩にことんと頭をあずけてくる。「……疲れたわ。ベッドで休みたい」
そうやって甘えられると、現金なものでフィルの顔がぱっと輝いた。
「そうだね。すこし眠らなきゃ。……起きる頃にはパンが焼けてるよ。それに、ああ、本当に髪を洗わないと」
膝裏と背中をすくいあげると、リアナはおとなしく抱き運ばれる姿勢になった。眠たさのあまり平常より素直になっているのが、たまらなくかわいい。
護衛の竜騎手たちの視線を背中に感じながら、フィルは二階の寝室まで彼女を運んでいった。そのあいだにも、リアナはもう、うとうとしはじめている。
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