Day 3 俺だけが知っている、あなたの


 朝の稽古は、グリップと前後の足さばきステップの単純な動きからはじめる。次に、目標をさだめ、そこに向かって四つの方向から剣を振る。円を描くように剣ではらい、斬って、引き、防御姿勢へ戻り……。

 どんなひよっこ剣士でも当たり前にやる、地味な練習だ。〈剣聖〉フィルバート・スターバウに剣技の妙を教わりたいと思う者たちが失望する事実でもあった。およそ剣をはじめてからほとんど欠かしたことのない訓練を、集中してこなしていく。その時々で課題にしている動きはあるが、いまはアエディクラで身についたグリップのクセを抜くのに苦労している。


 リアナが近づいてきたので、シャツで顔をぬぐった。これを着ていてよかった、と内心で思う。

「汗臭いですよ」

 声をかけたが、リアナからは笑顔も、朝のあいさつも返ってこなかった。昨晩はこの結婚への本心を言い当てられて動揺していたから、まだご機嫌うるわしくないのだろう。

 彼女は汗や匂いを気にするそぶりもなく、シャツの襟もとをつかんで引き下げ、唇をあわせた。フィルは軽い驚きで目を開いたが、身体を曲げてキスにこたえる。


「今日は掬星きくせい城へ行くわ」唇をはなしたリアナはそう言って、屋敷のほうへ戻っていった。


 フィルは唇をおさえ、そっけない後ろ姿を目で追った。昨夜泣いていたリアナは、ひとしきり当たりちらしたくせに、最後には俺の腕のなかで眠った。……あのまま、抱いてしまえばよかっただろうか。


 ♢♦♢


 リアナが謁見えっけんをこなしているあいだ、フィルは自由に過ごしていいらしかった。代理王の王配という立場で、彼女の負担を減らすような仕事ができればいいのだろうか、とフィルは考える。書類仕事にうとい自覚はある。所領からレフタスを呼ぼうか? ……だが、レフにはレフの仕事があるのだし。おそらく、竜騎手から実務に強い誰かを補佐に借りる必要があるだろう。疎遠なエクハリトス家の代わりに、ゼンデン家からでも誰かいないものか……。

 結局その日の午前中は、ハートレスの仲間たちが集まる練兵場に行き、日課の訓練を指導した。汗を流す仲間たちのなかに、叔母グウィナの姿をみとめたフィルは驚いた。


「どうしたんです、あなたがこんなところで訓練なんて」

 ちょうど、打ちあいを終わらせたところで声をかける。


「ライダーたちの訓練は、わたくし向きじゃないのよ」

 練習用の剣を片づけ、近寄ってきたグウィナが苦笑した。「男性の、恵まれた体格と筋力があってのものでしょう。なかなかうまくいかないので、ハダルクに相談してこちらで面倒を見てもらっているの」

「ああ……」

 フィルは納得してうなずいた。たしかに、極端に女性が少ない竜騎手団にくらべて、ハートレスたちのあいだには女性や小柄なものも多くいる。それぞれに適した任務があって選ばれており、訓練方法も多彩だった。

「指導はミヤミ……いや、シジュンかケブか」

「そうなの」

 グウィナは額の汗を拳でぬぐった。質素な訓練着に、輝く赤毛をきつくまとめ、化粧もしていない。それでも、エクハリトス家の美貌は健在だった。

「俺たちが小さかったころは、あなたは軍属だった。懐かしいな」

 フィルは清潔そうな布と水とを、叔母にわたしてやった。

「でも、ブランクが長くてダメね、もう少し体力をつけなくては」


 風にあたって休憩したいという叔母の求めで、フィルは練兵場に近い小庭園のベンチまで彼女を案内した。兵士たちの憩いの場で、城の名物である空中庭園のような華やかさはないが、とにかく椅子はある。練兵場からは掛け声や打ちあいの音がかすかに響いてきたが、外はかえって静かだった。


 二人はしばらく、とりとめもない世間話をしていた。こうやって二人でゆっくり話す機会も、最近はなかなかない。……が、やがてグウィナが思いきったように切りだした。

「結婚のこと、本当に驚いたわ」

「ん?」

「ハダルクに聞かされて、そのとき飲んでいたお茶をひっくり返したくらいよ。……どうして最初に教えてくれなかったの?」

 

 愛情をこめて肩をたたかれ、フィルは苦笑いのまま謝った。

「驚かせて、すみません。急なことだったもので、すぐ知らせられなくて」

 フィルの言葉に持たせられた含みに、グウィナは気づいたようだった。もちろん、この婚姻には大いに政治的背景がからんでいる。野心のためと見る者もいるだろう。だが、フィルにとってはまったく見当はずれな憶測おくそくだった。


 わかっている、というようにうなずいた叔母は、水を飲んでからまた口を開いた。

「あなたが誰かと生活をともにしよう、と思うようになったのは、素直にうれしいわ。シーズンに公式に参加できるようになったのはごく最近だし、決まったお相手ができればいいなと思っていたのよ」

 そして続ける。「だけどまさか、お相手がリアナさまだなんて。喜んでいいものかどうか、悩んでしまう。すでに夫のいる女性を……。あなたは初婚なのだから、あなた一人を愛してくれる女性を選ぶこともできるのよ」


「オンブリアの貴族にとっては、これが普通でしょう」

 フィルは高く青い空に目を向けた。騎竜訓練をおこなっている竜とライダーのペアが、小さな影になっている。列になって、旋回して。あれもまた、彼らの訓練なのだろう。


 グウィナは竜たちを見ていなかった。

「普通ではないのよ、わたくしの、かわいいフィル」

 そう言うと、甥の膝に手を置いた。握られた形の手に力がこもって、彼女が真剣であることが伝わってきた。

「愛する人をほかの誰かと分かちあうのは、普通のことではないの。夫婦の屋敷に、いつもどちらかがということなの。もう一人の男性と比べないようにと精いっぱいで、夫の腕のなかでやすらげないということなの」

 それは、ハダルクとゲーリーという、二人の男性の間を長く行き来していた彼女らしい苦しみの告白だった。


「辛かったですか? 二人との結婚生活は……」

 フィルが尋ねると、叔母はしいて笑顔を作った。「ええ」

「不幸せだったという意味じゃないの。幸せな瞬間がいくつもあったわ、どちらの相手ともね。ゲーリーは娘時代の初恋の相手だった。ハダルクは不妊に苦しむわたくしに寄り添ってくれた。……でも、結局は全員が、終わりない猜疑さいぎと嫉妬でずたずたに引き裂かれることになる」


 黙ったまま聞いているフィルに、グウィナは念を押すように言った。

「フィル、わたくしは、リアナさまのやり方に反対はしない。非情に見えても、政治上では最良の一手かもしれない。でも、あなたの愛と献身を知ったうえで利用するのなら、家族としては許せないわ。……今のあなたの、本当の気持ちを聞かせてちょうだい」


 フィルは考え、すぐには答えなかった。打算ではなく愛情からの言葉とわかっているからこそ、即答はできない。グウィナの指摘は、まとている。リアナは二度、彼を利用していると口にしたことがあった。一度はニザランで。そして、結婚生活のはじめの夜に。

 それに、昨夜の彼女こそ、『猜疑さいぎと嫉妬でずたずたに』引き裂かれていたのではなかったか。結婚生活を続ければ、それだけ長く、グウィナの言葉どおりの苦痛を味わわせることになる。

 


 フィルは空をあおぎ、竜たちが一列になって滑空していくのを見送った。訓練は終わりなのだろうか。

 それを眺める間、もう一度自分に問いなおしてみたのだった。なにしろ、自分の気持ちというものに思いを向けること自体、最近までほとんどなかったのだ。いまでも、自信をもって答えられるわけではない。これほど執着に近いものを、愛情と呼んでいいのかどうか。そして、この結婚生活で失われるものが、確実にある。



「……壊れて落ちた彼女の心の破片を、拾って歩いているような気がするときもある。ふり返らない彼女の後を追いかけながらね」

 もの問いたげに見あげてくる叔母に、フィルは自身の心境をそう説明した。

「でも、嫉妬や猜疑であれ、故郷への罪悪感であれ、苦しんでいるときのリアナを一番近くに感じるんだ。上王でもライダーでもない、デイミオンにも見せていない影の部分を、たぶん、俺だけが知っているから」


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