Day 2 朝の二人と引っ越し荷物

「おはよう。眠れた?」

 ふりむいたフィルが、優しくたずねた。すでに普段着姿で、調理用のリネンを肩にかけている。


「うん。何してるの?」

「朝食用の牛乳を温めようかと。……パンは昨日のだけど、大丈夫?」

 夜をまたいだパンは食べない、という貴族も多いらしいが、里育ちのリアナは平気だ。うなずいてから、周囲を見まわす。

「そういえば、誰も雇っていないのね」

「小さな家だからね」フィルが言った。「家事もやってみたかったし。寝室のほうで待っていてくれたら、持っていきますよ」


 本人の言うとおり、フィルの手つきは慣れたものだった。他人にやってもらうことに慣れきっているリアナには、逆にめずらしい。

「ここでいいわ」

「そう? ……じゃあ、これ。熱いから注意して」

 手渡されたカップには、カルダモンで香りをつけたホットミルクが入っていた。


 コンロの脇で立ったままホットミルクをすすっているフィルに、リアナは声をかけた。

「座って飲んだら?」

「そうですね」

 フィルは素直に言い、作業台の脇の椅子に腰かけた。にこっと口端を笑ませ、膝を叩いて言う。「……こっちに来て」


 リアナは少しばかりためらいながら、フィルの膝の上に座った。二人はそのまま、しばらく無言で熱いミルクをすすった。フィルは思いだしたように、ぎこちなく髪にキスをした。

「昨晩は……不甲斐なくて、すみませんでした」

「ううん」

 正直に言えば、ほっとしていた。よく眠れたのは安堵あんどのせいかもしれないと、今になって思う。気負いすぎていたのはリアナも一緒だ。感情の先には、デイミオンへの罪悪感がある。フィルを欲しいと思う気持ちに変わりはないが、まだ先に進む準備ができていなかったのかも。


「今日は一日ここにいられるの?」

 フィルがたずね、リアナはうなずいた。

「そのつもりよ。文官たちと書類のチェックはしないといけないんだけど。……あなたは?」

「俺の予定はね」フィルはうれしそうに列挙をはじめた。「あなたの朝ごはんを作って、あなたを入浴させて、そのあとドレスを着つけて、執務中はあなたの補助をしつつ間食を準備して、お茶を淹れて……」

「そ、そんな使用人みたいなことをしなくても」

「だけど使用人は雇っていないので」フィルは満面の笑みになった。「俺があなたのお世話をしないと」


 それは、結婚生活と言えるのだろうか? なにか別のものでは?

 リアナはそう言いたくなったが、フィルの上機嫌ぶりに水を差すのがためらわれてしまう。

「それとも、昨夜きのうのやり直しをさせてくれる?」甘い声が耳をかすり、リアナは思わず身をすくませた。フィルは柔らかく彼女の耳をんだ。

「それは、フィル、今は――」

 と、玄関のほうからノッカーの音がした。「あ、お客さんかも」

「来客の予定はありませんよ」

 膝の上で身動きするリアナをそっと押さえつけながら、フィルがささやいた。「ねぇ、俺に名誉挽回めいよばんかいさせてくれるでしょう? いまから抱いて運んでいってもいいですか?」

 首すじに鼻先をうずめ、鎖骨に熱い息を吹きかけられて、リアナはぞくりと身体を震わせる。

「フィル……」膝裏に手を入れ、抱きあげられようとするところで、ノッカーの音がはげしくなった。

 フィルバートはなおもあきらめ悪く続けようとしたが、結局、リアナにうながされて立ちあがった。


 ♢♦♢


 やってきたのは来客ではなく、引っ越し荷物だった。荷運び竜ポーターをひいてあらわれた男たちが、そう説明した。ヴェスランの商会で働いている者たちらしい。


「レフタス様より、フィルバート卿のお荷物を預かってまいりました」代表者らしい男が書類を差しだしながら言った。

「また、あるじのコーリオからも、生活品や食料品をお運びするようにと申しつかっております」


「ちょうどいいじゃない。今日のうちに、片づけてしまいましょうよ」

 リアナは隣のフィルを見あげ、そう声をかけた。

 書類にサインをしながらも、いいシーンを邪魔されたフィルは不機嫌そうだった。

「あなたがそう言うなら……」


 彼が気乗りしていない様子だった理由は、すぐにわかった。フィルバート・スターバウは家庭生活というものについて、ほとんど無知と言っていいくらい興味をもっていなかったのだ。


「勲章と宝剣なんて、どこに置くんだ……?」

 箱一杯におさめられた刀剣や、絹のリボンがついたメダルを見ながら、途方に暮れた顔をする。

 リアナは隣からそれをのぞきこんだ。さすがに戦時の英雄だけはある。これでも、ほんの一部であることが手紙にはしるしてあった。

「このくらいなら、応接間で大丈夫じゃない?」

 昨夜案内してもらった、屋敷の見取り図を思い浮かべる。暖炉の上に飾るには少しばかりスペースが足りないかもしれない。キャビネットを買ったほうがいいかも。


「別にこんなもの、家になくてもいいのに。管理が面倒だ」

 屋敷の主人は不満げに呟いている。

「来客があったときに自慢するのよ。話のきっかけになるわ」

「客なんて来なくていい。せっかくあなたと二人きりなのに」

 フィルは、嫌いな野菜を前にした子どものような顔つきになった。



 服、食器類、そのほかの生活用具。部屋に荷物が入ると、屋敷はを増したようだった。そうリアナが言うと、フィルは「そうかな。よくわからない」と首をひねった。


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