5.どうしようもなく、激しい恋に落ちた男の

 春の夜風が、心地よく夫婦の髪を撫でていった。

 セラベスは夫の腕に自分の腕をからませ、淑女らしく堂々と歩いていた。その姿は、かつてのおどおどと所在なさそうなベスとは別人だった。伴侶はんりょて、また仕事を通じて、自信がついてきたことが身のこなしを変えたのかもしれない。

 二人は食堂を出て、テキエリス家のタウンハウスまで歩いて帰ろうとしているところ。


「あそこまで聞きだせたのは、あなたのおかげですよ」と、テオが妻に言った。

「なんだかんだ、見栄っ張りなヤツですからね。男同士だと、聞いてもしゃべらない。あなたが聞いたのがよかったみたいです」


 結局、フィルはベスに聞きだされる形で、ぽつぽつとリアナへの思いを語った。竜殺しの罪をつぐなうため、彼女がまだ生まれたばかりのころに生命を守る誓いを立てていたこと。赤ん坊だった彼女を、みずからの手で〈妖精王〉イノセンティウスのもとまで運んだこと。ハートレスであるフィルにとって、誓いそのものが生きるかてでもあったこと。そして、あの嵐の夜を境に、友愛が恋情に変わってしまったこと……。

 ここまで自分の内面をさらけ出す元上官を見るのははじめてで、テオは聞き手としての妻の手腕に、大いに感心したのだった。


「戦時中からもう何十年も一緒にいますけど、いまだにあの人がなにを考えているのか、俺にはわかりませんからね」

 テオはため息まじりに言う。「そりゃ手稿やなんかも大事でしょうけど、もっと早く気持ちを打ち明けてたら、リアナ陛下の心も違ってたかもしれないのに。妙なところで不器用というか、わかりづらいことするんだから」


「わかりづらい……そうでしょうか」

 ベスがふと足を止めた。テオからは、彼の好きな思慮深い緑の瞳が、どこか別の場所に向けられているのが見える。


「わたくしには、フィルバート卿がずっと、リアナさまの心を求めているように聞こえました」

 ベスは街灯のあたりに目をさまよわせながら、ゆっくりと言った。「あの手稿のこともそうです。『俺にも、あなたを助けられる。俺を頼って。俺を見て』――そう言っておられるようじゃありませんか?」


 ♢♦♢


 テオたちと別れたあと、フィルは彼らに語っていないその後の顛末てんまつについて、一人ふり返っていた。

 「自分の愛情に気づいていなかった」というベスの指摘は、残念ながら当たっていた。だが考えてみると、当時もイーサー公子に似たような指摘を受けたことがある。そのときの会話を思いだしていたのだった。



 ……ほどなくして、フィルは当初の目論見もくろみどおり、イーサー公子の庇護ひごを得ることに成功した。公子を足掛かりにしてアエディクラ入りし、最終的にはガエネイス王の手から手稿を奪還だっかんする。そういう計画だった。


「高貴な女性との道ならぬ恋、ですか」

 イーゼンテルレまで戻る道すがら、イーサーは面白そうに言った。「なるほど、それは国をけるにあたいする」

 一行は、イーゼンテルレが極秘裏に開発した矮竜わいりゅうと呼ばれる飛竜に乗って国境を越えた後、一般の竜車に移っていた。公子の贅沢な竜車で接待を受けながら、フィルはこれまでの出来事をイーサーに語って聞かせた。彼が興味を引くような悲恋の当事者を演じながらも、目にした軍事情報を逃すまいと映像を脳に刻む。

 たしかに、このときはまだ、と思っていたのだった。


「しかし、あなたという人物を知っている者にとっては意外でもありましょうな。〈竜殺しスレイヤー〉とも呼ばれる方が、恋愛を理由に国を出奔することになるとは」

「それは、殿下の買いかぶりですよ。俺は普通の男です」

 フィルは、自分がうまく表情を作れているか自信がなかった。普段の彼なら考えられないくらい、動きがぎこちなくなっている気がした。

 しかし、イーサーはフィルのそんな不安に気づく様子はなかった。竜の国オンブリアの、その随一の剣士がろうせずして手に入ったという予想外の幸運に喜んでいる様子だった。


「独身の美しい女性と、国難を救った英雄。人間の国なら、もろ手を挙げて歓迎されるロマンスだと思うのですが」と、イーサーが言った。

繁殖期シーズンに入るという宣言をしていない女性との恋愛関係は、オンブリアでは大きな社会的制裁を受けるものとなります」フィルが答えた。

「それが、たった一度でも?」

「ええ」

 その言葉に、フィルは胸がずきりと痛んだ。たった一度。そしてもう、二度と会えない。あんなふうに彼女の大切な機会を奪って、合わせる顔もないのだから。


 彼女にはもっと、戯曲の恋物語のように甘い初夜がふさわしいはずだった。あんな粗末な釣り小屋でも、吹きすさぶ嵐でもなく、暖かな春のよいと、花が敷きつめられた寝室だ。思いが通じあった男が、優しく彼女を寝台に運ぶような夜。愛情といたわりに満ちた夜であるべきだった。

 きっとリアナも、恋する男とのはじめての共寝を夢みることがあったに違いない。それなのに、自分のエゴでなにもかも台無しにしてしまったのだ。彼女があの夜を後悔するようなことがあれば、俺は自分を許すことはできない。……


 だが、あの交情は力づくではなかった、と、ふとフィルは思った。リアナは自分の意志で、フィルに彼女自身を与えたのだ。そして彼もまたリアナが望むすべてを与えた。

 俺の腕のなかで、彼女はどこまでも温かく、柔らかかった。心を許した男にだけゆだねられる重さと柔らかさだった。

 まなざしを交わし、キスでこたえ、深くつながったまま名を呼びあう……気がつくともう何度もその幸福を思い返していて、自分が恐ろしいほどだ。


 そして彼女の腕のなかで、フィルは初めて自分が完全にれられたと思った。血と泥と塹壕ざんごうしかないみじめな戦場も、あらゆる無残な死も、指揮官としての無念も、彼女の前にすべてが消え去った。……胸がしめつけられて、たまらないような気持ちになる。どうして彼女は――……。


「フィルバート卿?」

 いぶかしげな呼びかけに、フィルはようやく、散りぢりに乱れる物思いから覚めた。顔をおおっていた手をはずして、公子にびる。

「すみません。ちょっと、考え事をしていて」


 イーサーは「よくわかっている」とでもいうような鷹揚おうような笑みを浮かべた。よく磨かれた車の窓を指して、からかうように言った。


「ご自分がどんな顔をなさっているのか、ご覧になってみるとよい。……どうしようもなく、激しい恋に落ちた男の顔ですよ」


 ♢♦♢


 ほどよく酔いがさめた頃、テキエリス家のタウンハウスが見えてきた。当主のロギオンはシーズンのため不在だが、かれら夫婦のために明かりがともしてある。


 以前は圧倒されるほど大きく感じた館だが、いまでは目になじんで、すっかり帰る場所になっている。テオはそのことに奇妙な感慨かんがいをおぼえながら、懐にあるはずの通用門の鍵をさぐった。


「本当は、フィルバート卿にひとつ、懸念けねんをお伝えするつもりでした」

 隣のセラベスが、ふとそう言った。 

「懸念?」鍵をあけながら、テオが問いかえす。


 ベスがためらいがちにうなずいた。

「第二配偶者の立場は、第一配偶者が決めるものなのです。フィルバート卿とリアナさまの結婚契約はたった一年。延長するかどうかは、第一配偶者であるデイミオン陛下が決定します」

「……」

 そしておそらく、デイミオンは契約を延長することはないだろう。妻の言いたいことを理解したテオは、扉を押す格好のまま、その意味を考えた。

 ベスが後を続けた。

「子どもをもうけるためだけの結婚でも、つがいの時期を過ごせば、たがいに特別な愛情が湧くといいます。ましてフィルバート卿は、リアナさまとの結婚生活そのものが目的なわけですから……」


 二人は燭台の明かりをたよりに、慣れ親しんだ家のなかを進んでいった。彼らが動くごとに、ちらちらと明るい照り返しも移り変わっていく。


「あれほど長い間、思いがれてきた女性との結婚生活が、たった一年で終わってしまう。そのことに、フィルバート卿はうまく折り合いがつけられるでしょうか?」


 寝室の前までくると、ベスは思案げに、そう夫に伝えたのだった。

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