4.英雄、初恋を語る

 たしかに、それはセラベス・セラフィンメア・テキエリスと関係があった。かつて、もう十年以上昔になるが、彼女はデイミオンと一つの繁殖期シーズンを過ごす契約をしていた。そのことが、のちにリアナとフィルのあいだに起こる出来事の発端ほったんになったのだ。

 フィルの説明は、淡々としていた。


「そうでした。あのときには、もう、デイミオンさまはリアナさまをにお選びになっていたのだったわ」

 ベスは苦笑を浮かべた。「その結果、わたくしはデイミオンさまからお断りを受けたのですが、……実を言うと、その春はシーズンに参加せずに済んで、ほっとしたものです」

 そう言うと、隣のテオに向かっていたずらっぽく微笑みかけた。「空いた時間で、毎日本が読めますからね」

 デイミオン王とセラベスのあいだに、もはや旧知の友人関係以上のものがないことはわかっているので、テオも口端を笑ませて彼女の手の甲を叩いた。


「リアナさまは、まだ繁殖期に入っておられなかった、と記憶していますわ。ですから当時はちょっとした騒動になりましたね」

 セラベスは当時をふり返りながら言った。「王と後継者という関係でもありましたから、デイミオンさまの思惑も間違って取りざたされていた気がします。婚姻関係を盾に、王位を狙うつもりがあるのでは、と」

「まあ、実際に狙ってましたしね、最初のころは」二人があまり手をつけていない皿をせっせと食べすすめながら、テオが口をはさんだ。


「でも、実際はそうじゃなかった」フィルが陰鬱いんうつに言った。

「あの年の、最初の春の宴よりも前――まだイーサー公子が国内にいて、接待の狩りをもよおしたとき、二人はもう内密の恋人同士だった。あとはリアナの繁殖期入りを待つだけの状態だった」


「そういうことだったのですね」ベスは感慨深げにため息をついた。

「たしかに、あの頃のデイミオンさまはどこか上の空でした。わたくしが不器量でつまらない小娘なせいではと、当時は気に病んだものですが」

「あなたは綺麗だし、学識豊富なところも好きですよ」

 テオが彼女の黒髪に口づけると、ベスはいくらかくすぐったそうに笑った。二人は身分差にもかかわらず順調に繁殖期を重ね、正式な伴侶はんりょとしてもう五年目になる。

「大将はあの時期、あんまり国内にいなかったでしょ」テオが続けた。


「その時期には、俺にはもう別の計画があって、近々イーゼンテルレに出国するつもりだった」

 フィルはグラスのなかに目を落とした。「だけど、デイのことで彼女が苦しんでいるかと思うとほっておけなくて、気分転換に誘うようになったんだ」

 彼はリアナを魚釣りに誘い、つかの間、王の重責もデイミオンの夜のつとめのことも考えずに過ごせる時間を作ろうとした。森には、フィル自身が少年時代に建てた釣り小屋がある。二人は釣った魚を調理し、分けあって食べ、暖炉の前で他愛もない話をした。

 気晴らしはうまくいったと言える。実際、うまく行きすぎたのだ。

 

 リアナは、ハートレスであるフィルが、繁殖期シーズンから除外されているのではないかと気にしていた。単なる主従関係に終わらない強い信頼にくわえて、おなじ孤独が二人に危険な結びつきを与えはじめていた。予兆はいくつもあった。ミモザの花をはらうとき、釣りかたを教えようと背後から抱く姿勢になったとき、ふれあった二人のあいだには見えない電流のようなものが走った。おたがいの目のなかに軽い驚きがあった。

 

 フィルは、野生の苦いさくらんぼの味をまだ覚えている。あのとき、唇に触れた彼女の指には、はっきりと誘う意図があった。

「あれが最後の橋だった。彼女の苦しみだけを受けとめて、それ以上は一線を引くべきだった。……それなのに、いま思えば、俺は自分に都合のいい言い訳をしていた」

 あと一回だけ。レーデルルの飛行訓練が終わったら。彼女が俺を欲しがっているなんて、そんなのは気のせいだ。

 だが、嵐になるのは、もうずっと前からわかっていた。どんな言い訳をしようとも、フィルには二人の関係を主従のままにとどめておく責任があったのだ。


「そして――俺は失敗した」



 ♢♦♢


 タマリスの西部、小さな湖がつらなって数珠じゅず湖と呼びならわされるあたり。

 にび色に染まる森は、朝もやのなかで活動をはじめていた。嵐の通過とともに雨も上がり、今日は晴れるだろうと思われた。どこかで、クゥクゥとおだやかに鳴く鳩の声が聞こえる。その声が、つとんだ。

 木陰に身をひそめるフィルバートには、その理由が分かっていた。

 あの獰猛どうもうなるアルファメイル、すべての捕食者の頂点に立つ黒竜アーダルが、この森に近づきつつあるのだ。

 もう、ここを離れる頃あいだった。デイミオンは確実に彼女を探しあてる。


 彼女の無事は保障されている。これ以上、ここにいる必要はない。そう判断してきびすを返したのに、フィルバートの目は一度、小屋の方を振りかえった。

 この小屋のなかに、リアナが眠っている。はじめての交歓に疲れきって、だが満足そうな寝顔で。


 彼しか知らない森の抜け道をいそいでわたりながら、フィルは、リアナのことを考えまいとつとめた。だが、いくら考えまいとしても、彼女のことばかりが浮かんでくるのだった。


 失敗した、失敗した、失敗した。

 フィルの頭の中では、その言葉が鳴り響いていた。までするつもりじゃなかった。どんな悪評でもいいはずだった。自分のやったことは、大切なものを兄弟から奪い、取り返しがつかないほどにリアナを傷つけるかもしれなかった。それ以外なら、ほかのどんな不名誉でもよかったはずなのに。


 なお悪いことに、フィル自身は彼女を抱いた満足感に包まれていた。肌の温かさと柔らかさ、戸惑いながら甘く乱れていく声、彼女を構成するすべての手触りと匂いが彼の心を溶かした。あの声で「フィル」と名前を呼ばれると、魂まで奪われると思った。

 それはまるで――いや、リアナのことを考えてはいけない。彼女は俺の半身つがいじゃない。


 フィルはぎゅっと目をつぶり、押し寄せてくる感情に流されてしまわないように耐えた。やるべきことが、まだ残っている。

 ……

 

 ♢♦♢


「だからって、そのままアエディクラに出奔しゅっぽんするっていうのは、あんまりだろ」

 蒸留酒入りのグラスを手に、テオが言った。彼は、当時のリアナの憤慨ふんがいと失望を間近に見ている。リアナが怒っていたのは、フィルが彼女を抱いたことではなく、それを認めることなく逃亡したという点だった。


「それは、もともとの予定だった」

 フィルは銅グラスについた水滴を指でなぞった。「どのみち、イーサー公子を頼ってイーゼンテルレ経由でアエディクラに入るつもりだったんだ」

「『マリウス手稿ノート』のために?」と、テオ。

「そうだ」

 フィルは堅苦しく答えた。

「そのころはまだ、リアナのデーグルモール化に、そこまで確信があったわけじゃなかった。ただ、いざというときのために絶対に手に入れておきたかった。彼女が戴冠したときから、決めていたことだ」

「いや、そういうことじゃなくてさぁ……」テオは金髪をぐしゃっとかき回した。「もっとこう、陛下に対してなんかあっただろ? 手稿のことだけじゃなくて……」


「肉体面でも精神面でも強さを求められる分、男性は女性より感情を抑圧しがちなように感じます」

 セラベスが優しく口をはさんだ。

「そこまで身をささげていながら、ご自分の愛情には、気づいておられなかったのかもしれませんわね」

 そうそう、それだよ。テオは妻の隣で何度もうなずいた。


「それは――」

 フィルは否定するように口を開きかけたが、結局、耳のあたりを赤くした。「あなたの指摘のとおりかもしれない」

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