終章 あなたの目ざめる春に

第56話 朝になったら起こしにきてね

 竜神祭の準備がはじまり、城下街がにぎやかになりだした春の一日。北方領主ナイルは出立のあいさつのため、妻をともなって掬星きくせい城を訪れた。


竜騎手ライダーの務めをなかなかこなせなくて、申し訳ないわ」

 リアナの言葉に、ナイルも残念そうな顔つきになった。

「私のほうこそ……。本来なら、ここに残って陛下を手助けしてさしあげるべき立場ですが」

 北部領主家は、これから夏にかけて、王国の農業を天候面で支援するという彼らの仕事で忙しくなる。リアナからしてみれば、王国の運営を任されるこれからの一年、実家の手助けが期待できないということでもある。


「デイミオン陛下が眠りにかれる日が決まったのに、そばで支えてさしあげられないことを、お許しください」

 デイミオンの不在について触れられると、リアナの表情が一瞬、凍りついた。これからは準備期間になるのだから、この話題にも慣れていかねば。しいて笑顔をつくり、世間話にまじえた。

「おたがい忙しくて、困るわね。……いずれ時間ができたら、一度は北方領にも行ってみたいのだけど」

「ぜひ。家臣一同、首を長くしてお待ちしております」


 リアナは了解の意味をこめてうなずき、従兄いとこの隣に立つ女性に目を向けた。「あなたも一緒に行くのね?」

「はい」

 ルウェリン卿、あるいはかつてルーイと呼ばれた女性は、髪を結って編みこみ、若草色の外套コートで旅装していた。

「コーラーとして、夫の負担が減らせるようにと思っています」

「コーラーとして、ね。いいことだと思うわ」

 領主の妻として社交界で立ちまわるのも大事な仕事だろうが、今のルーイにはそれが十分にこなせているとはいいがたい。まだ若いのだし、夫のもとで得意分野の仕事を覚えるのは彼女にとっても領主家にとっても利点が多いことだろう。リアナはそのように思った。



 立ち去り際、扉近くまで見おくりに出たリアナに、ルーイはそっと身をよせてささやいた。

「ご婚約、おめでとうございます。……フィルさまはすっごくですから、夢中にならないように注意してくださいね」

 若草の緑の目と、薄灰色の目がかち合った。

「言うじゃないの。そっちこそ、おいたが過ぎて夫に捨てられないようにするのね」

 二人は、ともに「ふん、わたしが勝ったわ」という顔をした。隣のナイルが、手袋をはめながら苦笑いしている。


「わたしにこんな口がきけるのはあなたの奥方だけよ、ナイル卿。貴重な戦力として、確保しておくといいわ」

 リアナが肩をたたくと、ナイルはくっくっと笑った。「ルーイには、私にないものがあるとわかりましたよ。たしかに、あなたの教育のたまものかもしれませんね」

「わたしたちは、生命力が強いタイプなの」

「違いない。……では、我々はこれで。竜王の御代のやすからんことを祈念いたします」

 お決まりの、しかし心のこもった挨拶を最後に、ナイルは一礼して歩いていく。


「ねえ、ルウェリン卿」

 廊下の先で待つナイルに追いつこうと足を速めたルーイに、リアナは背中から声をかけた。「、今のあなたが好きよ」

 それを聞いたルーイは、心底イヤそうな顔をした。リアナの言葉に、ケヴァンとのやりとりを感じたからだった。そういう嫌がらせで別れの挨拶をしめるあたりが、いかにもこの上王陛下らしかった。



 ♢♦♢


 ルーイが言及した、そのフィルはと言えば、ここ数日姿が見えなかった。婚前契約書への署名は済ませていったが、以降、音沙汰がない。テオの弁によれば上機嫌でタマリス界隈かいわいに出没しているらしく、この期に及んで逃げだしたというわけではないらしいが。

「誰か、あの首に鈴をつけてくれないかしら」

 リアナがぼやくと、エピファニーが笑った。「それこそ、英雄の首に鈴をつけるのを、みんな期待してるんじゃないの?」


 二人は新竜舎にいた。すでにとっぷりと日が暮れている。

 ドーム型の天井は上部の窓がひらけて、そこからは星がちらちらと瞬いていた。奥では、アーダルが黒山のような影を作っている。竜舎に人は絶えないが、夜勤に交代したいまは、竜医師や世話人たちの姿は見えなかった。奥の詰所や、それぞれの竜房にいるのだろう。

「これがその装置?」

「そうだよ」

 一人用の寝台といった見た目の足つきの装置に、リアナは手を伸ばした。広い竜舎に置かれると、その寝台はとても小さく見える。デイミオンの身体が、本当にここに入るのかしら。

 ファニーは計測器のようなものをいじっては、なにかをチェックしている。長衣ルクヴァを着ていないと、あいかわらず成人前のようにしか見えない。


「なんだか、〈継承の間〉のなかとちょっと似ているわ。継ぎ目がなくて、鏡みたいにぴかぴかで」

「同様のものが〈御座所〉にもある。青のライダーの力を利用して、対象者の身体を長期の睡眠に適した状態にたもつことができるんだ」

 リアナは眉をひそめた。「継承されてきたものってことは、遺跡から発掘されたようなものなんでしょ? 使うのは危険じゃないの?」

「この装置については、手動の部分も多いし、そこまで複雑な機構はないよ。……よし、チェック終わり」ファニーはリアナのほうに向きなおった。「まったく、急に装置を試したいなんて。困った上王陛下だね」

「無理を言って悪かったわ」


 ファニーは気軽に手を振った。「データが増えるのはむしろ歓迎だよ。デイミオンは嫌がるだろうけど。……僕も自分で試したいタイプだからね、わかるよ」

「ふふ」

 なんだかんだで、自分とファニーはよく似ている。好奇心旺盛で、ちょっと向こう見ずで。違うのは、ファニーのほうは政争と距離を置いていることだろうか。できれば、今後も彼を宮廷のパワーゲームからは遠ざけておいてあげたい、と思う。自分の立場上、難しいことかもしれないが。


 思いをめぐらすリアナに対して、ファニーは柱の簡易燭台の火を落とした。

「ルルと君の就寝時間に合わせて、いまから一刻後にはじめる予定だけど、大丈夫?」

「ええ」

「じゃあ、僕はちょっと休憩してくるね。ゴールディを遊ばせてやりたいし」

「わかったわ。お願い」



 ファニーがいなくなると、竜舎はとたんに静まり返った。だが、竜たちの息づかいがそこには満ちている。

 アーダルの影から、白く美しい雌竜がするりと現れた。すーっ、すーっ、という穏やかな竜の鼻息が聞こえた。


「レーデルル」

 自分の竜に呼びかける。かつてはこの竜と意思を通じていたのだが、レーデルルの言葉はあの戦場を境に失われてしまった。しかし、言葉は失われても、竜との大切な絆である〈呼ばい〉はまだ残っている。

「一緒に寝るの、ひさしぶりね。あなたが子どものころ以来かな」

 不思議な虹色の瞳が、ゆっくりとまばたきをしている。リアナは続けた。

「……あなたの旦那さまを、デイミオンと一緒に目覚めさせるのよ。だけど、うまくいくかしら……正直言って、まだ不安なの」

 主人ライダーの言葉に、雌竜は吟味するように聞き入っている。リアナの言葉は、ほとんど自分に言い聞かせるようなものだった。

「とにかく、やってみなくちゃ。……今夜一晩、よろしくね、ルル」

 ルルは思慮深いまばたきで、それにこたえた。


 デイミオンは、それからほどなくしてやってきた。

「仕事から解放されて、気がすむまで眠りたいとよく思うが、こんな形で叶うのはうれしくないものだ」

 彼が靴音を響かせると、その歩みに合わせるように、燭台の火がさっと燃えさかった。見事な長身と、彫刻めいて整った顔だちが闇に浮かびあがる。炎は竜王の訪れを歓迎するように勢いよく瞬いてから、また静かになった。


 リアナはそれをうっとりと眺めてから、現実的に返した。

「眠っているあいだは、意識がなくなるらしいから……。眠って起きるまで、たぶんあっという間よ」

「そう祈るよ」

 デイミオンは寝台の端に取りつけてある棒状の突起に、ランタンを下げた。「……これが装置か?」

「そうみたい」

 寝台の、身体を休める部分は、柔らかいがよくわからない素材でできていた。指で押すとゆっくりと沈み、生き物のように押し戻す感覚がある。

「変な感触。なんだか冷たいわ」


「そうだな」デイミオンは妻の隣に腰かけ、自分でも触って確かめた。「今日のところは、おまえが温めてくれ。おまえが一晩ここで眠ったと思えば、多少は心慰められるだろう」

「だといいわね」


 ランタンのほのかな明かりが、デイミオンの頬にオレンジ色の光を落としていた。彼女よりも体温が高く、肌はなめらかで、頬をはさむと髭の剃り跡がかすかにざらつく。リアナから誘ったキスにデイミオンがこたえ、小さな口づけの音が響いた。


 二人は顔を近づけたまま、じっと闇の気配をうかがっていた。アーダルほどおおきな竜がいると、竜舎のすみずみまでその気配に満たされているように感じる。


「……こんなふうに暗いと、アーダルの脈動を感じるわ。力強く血を送り出している、竜の心臓が」

 リアナは言った。

 

「ああ。俺にもわかる」デイミオンが静かに言った。「まるで、竜舎そのものが巨大な竜の身体になったように感じる。岩壁が波打って、どくどくと鼓動を打つ音がするように」

「ええ」

 リアナは夫の胸に頬を寄せた。「そこから、竜の支配下にあるほかの生き物のことが。アルファメイルにつき従う、ほかの雄竜たちの稚気にみちた信頼も」


 デイミオンがあとを続けた。「……捕食者におびえる、小型の竜の心臓が脈打つ音。さらにその竜に捕食される鳥の、巣で待つたくさんのヒナたちのささやかな脈動……」


 二人は目線をからめ、熱く見つめあった。

「これが、竜と精神を同期するとき、俺たちライダーが知覚する世界」

 深みのある低い声が、リアナの鼓膜をなでた。温かく大きな手がそれに続く。「沈黙のなかに生物の息づかいがあり、暗闇のなかに、あらゆる色彩がある。……そして、おまえがいることで世界が完成する。一対の完璧なとして」


 竜の気配と濃い闇のなかで、二人は睦みあった。竜の息づかいに、男女の弾む呼吸とキス、そして衣擦れの音がくわわった。ランタンの炎がぱっと輝いて、二つの身体にまだらの影を落とし、生き物のようにゆらめいている。

 デイミオンのものは固く、完璧で、愛撫は彼女の身体のすみずみまで知りつくしている男のものだった。でも、それはいつかのように性急な交わりではなかった。愛情と真剣さと、どこかくすぐったがっているかのような笑みが混じっていた。すでに満ち足りているカップから、愛情という水をたがいにそそぎあって飲むような行為だった。……肩を指でつかみ、顔を押しあてると、それが合図だとわかったようにデイミオンは彼女を導き、やがて絶頂をむかえた。



 抱きあったまま、荒い息がおさまるのを待った。

「愛してるわ、デイミオン。ルルにも、ドーンにも、同じくらいの愛をわけてあげたい」

「そのためにも、アーダルを目ざめさせなければ」デイミオンは彼女の目の上あたりに囁く。

「うん」


「約束する。かならずあいつと一緒に目ざめ、竜の王国の繁栄をさらにたしかなものとする。竜たちが幸せであってこそ、おまえも欠けることなく幸福を感じられるはずだ」

「うん」リアナは少しばかり涙のにじむ目をこすった。「待ってる」



「……簡易寝台を持ってくる」

 服をざっと整え、デイミオンが言った。リアナは笑って首を振った。

「それじゃだめよ、試験にならないわ。あなたは、わたしたちの寝室で待っていて」

 デイミオンはその言葉を予想していたように、大げさに嘆息した。「言っても聞かないんだろうな」


「朝になったら起こしにきてね」

「ああ」デイミオンは真剣な顔で、なにかを吟味するように妻をじっと見た。それから、いつもそうするようにまぶたや鼻の頭に触れるだけのキスをした。最後に、唇にも。「いい夢を」


 デイミオンの、背の高い後ろ姿が去った。

 それから青や黄のライダーたちがやってきて、彼女に装置を取り付けた。


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