第54話 婚前契約

 五公会を解散させると、デイミオンはリアナとフィルをともなって執務室へ戻った。二人の男が歩調を合わせてさっさと進むので、リアナはやきもきしながらそれについていく。朝のような妙に穏やかな空気も不気味だが、かといって口論をはじめられても困る。まして、自分が原因のケンカとなれば。


 執務室の扉が閉まった。三人だけで内密に、と思いきやそうではなく、秘書官と書記官がすでに待機している。デイミオンは書記官から一枚の紙を受けとると、二人に向かって事務的に告げた。

の婚前契約書だ。内容を確認して、署名するように」


「ふーん」

 フィルバートは気のない様子で、秘書官が渡した鵞ペンをとった。さっと書面を確認し、署名しようとするのをリアナがあわてて止める。

「フィル! 契約書はもっとよく読まないとだめよ」

「俺とあなたが夫婦になるっていう書面でしょう? 別にこれで問題ないと思うけど……」


「どうしてそんなに無関心になれるの!?」

 リアナはフィルの手から書面を奪った。紙一枚にではあるが、とても読む気がしないほどこまごまとした契約内容が記されている。


 リアナはつぎつぎと項目を読みあげていった。「第二配偶者の公的立場。婚姻期間の延長の有無。それぞれの財産の帰属。第一子の親権……ほら!」

 ある一点にくると、勝ちほこったようにフィルバートに突きつけた。「親権は第一配偶者、つまりデイミオンに行くようになってるじゃないの。こんな大事なところを読み落とすなんて!」

 妻にたくらみを見破られたデイミオンが、盛大に舌打ちをした。端正な顔だけに、憎らしさもひとしおだ。


「別に、親権なんてどちらでもかまいませんよ。できるかどうかもわからないのに……」

 フィルバートはしらけた顔で言った。「そもそも、子ども自体、そんなに興味はないし」

「子どもに興味がない? そんな浅薄せんぱくな考えで、よく繁殖期シーズンに参加しようなどと思えるものだな」

「繁殖、繁殖って。竜騎手ライダーたちのそういう動物的なところがイヤなんだ。それしか頭にないのか?」

「なんだと?」


 男たちの間に、雷雲のような不穏なものがまた生まれはじめている。繁殖期の雄竜のように取っ組み合ったりされると城が危ないので、リアナは急いで二人を引きはがした。三人で話し合おうなどということ自体が、もとから無謀だったのだ。どちらの男も、説得するなら個別に撃破するしかない。


 そう決意して、リアナは出口のほうへフィルバートの背を押していった。

「とにかく、持ち帰って一度しっかり確認して。署名はあとからでもいいから」

「別に、契約が俺に多少不利でも、それは構わないのに……」

 フィルバートはそう言いながらも、抵抗することもなく素直に扉のほうへ押しだされていったが、部屋を出る前に彼女のほうを振り向いた。


「気が変わった、なんて言わないですよね?」フィルは懇願するような口ぶりになった。「本当に、俺の奥さんになってくれる?」

 弱気を見せるのも男の策略なのかもしれないが、子どものようにしょげているフィルを見ると、つい甘くなってしまう。


 リアナは気を引きしめ、「わたしは約束を守る女よ」と言って扉を閉めた。


 ♢♦♢


「やり口が汚いわよ、旦那さま」

 扉を背にして、リアナはじっとりと夫をにらんだ。

 自覚はあるのか、デイミオンはと目をそらす。

「なんとでも言え。あいつにはそれだけの価値があるものを貸してやるんだ」

「貸すって、わたしのこと、そういう言いかたをするのはやめて」

「だから、それは言葉の――」

 デイミオンは言いかけてやめた。書記官と秘書の好奇に満ちた目に耐えかねたらしい。「……庭に出よう」



 執務室からは、露台バルコニー同士がつながって空中庭園へ抜ける道がある。デイミオンはガラス窓を押してあけ、庭園へ続く細い通路を歩いていく。リアナはしかたなく、広い背中についていった。

 向かって右側に、さえぎるものなく晴れた春の空。左側は鱗のようにきらきらと輝く掬星きくせい城のガラス窓。

 そして前方に、ティーカップがいくつも連なるような、複雑で小さな庭が見えてくる。


 パゴダのなかに入ると、柔らかく抱きしめられた。矢傷のある背中に触れないように、肩と腰にそっと手をまわされる。デイミオンは、今ようやく空気を得たかのように、長い長い息を吐いた。


 それで、さっきまでの勢いと怒りが溶けていくようだった。

 デイミオンが不機嫌だと、リアナはつい攻撃的になってしまう。でも、こうして心臓が重なり合うほど近くにいれば、何も言わずともそれだけで夫の気持ちが伝わってくる。愛するが自分の羽の下に戻ってきたという安堵あんどだけが、そこにはある。


 無事に城に戻ってはきたけれど、あまりに目まぐるしく事が動いていて、再会をよろこびあう時間すらなかった。事件の後処理も普段の政務も、なにもかもデイミオンがやってくれたのだ。おそらくは夜を徹して。

 夫の疲労と心痛にも気がつかないほど、リアナ自身、気を張っていた。フィルバートを助けなければという危機感もあったし、五公たちとの対峙たいじは緊迫していた。息子が犯罪に加担していたグウィナの悲痛にすら、すぐには思いおよばないくらいだったのだ。


「ごめんね」

 夫の胸のなかから、リアナは素直に謝った。フィルを助けるためとはいえ、二番目の夫の出現などという茶番を演じさせたこと。その前に、襲撃でフィルをかばってしまったこと。いや、そもそもが闇オークションなどに首を突っこんでしまった自分の無鉄砲ぶり……。契約のことだって、つきつめれば彼女のためのものなのだ。


「おまえが謝ることじゃない。もともとは俺の計画だ。王の不在も、フィルバートのことも」

「うん……」

 どれくらい長いあいだ、デイミオンはこの計画を抱えてきたのだろうか、とリアナは思った。グウィナとハダルクの結婚式の夜、彼はフィルバートにシーズンの話を持ちかけている。その夜のデイミオンは、いつになく不安そうだった……。


「でも、その計画はアーダルを助けるためだわ。そして、フィルとの結婚は、あなたがいないあいだのわたしのために。……デイ、本当にあなただけが、こんな負担に耐えなくちゃいけないの?」


「フィルバートには耐えられて、俺には耐えられないというのか?」デイミオンの声に棘を感じた。

「そんなこと……」

 言いながら、リアナは自分が失言をしたことに気がついた。デイミオンは昔から、弱い者のように気づかわれるのが嫌いなのだ。


「少なくとも、この結婚であなたに嫉妬の辛さを味わってほしくない」

「おまえに嫉妬のなにがわかる? 俺にも、あいつにも愛されているくせに」声に怒りが混じっている。

 リアナは身体を離して、夫の顔をしっかりと見あげた。

「あなたが繁殖期シーズンをほかの女性と過ごすのを、寝台のなかで待っていたことがあったわ。毎日、夜が来なければいいと祈って……。デイ、わたしだって嫉妬するのよ」


 言いながら、当時の苦しい思いがよみがえってきて、リアナは思わず顔をそむけた。デイミオンの唇が、まつげからこぼれ落ちる涙をすくい取った。

 こんなことで泣いてしまうなんて、少女のようで、自分が腹立たしい。だが、悔しさで上書きしようとしても、涙はなかなか収まらなかった。

「……すまない。嫌なことを思いださせた」

 かさついて温かい唇が、彼女の涙で濡れた。頬をすり寄せ、甘やかすように髪をなでられる。「俺が悪かったから、泣くな」

 昔はこんなふうに簡単に謝ったりしなかったし、涙を見せるとあきれるくらいだったのに、だんだんと妻の気持ちのおさめかたに習熟するようになった。数えきれないくらいケンカして、そのたびにもっと近づいていく。


「おまえと結婚する前は、ずっと婚前契約に沿って粛々とシーズンの務めをこなしてきた。だから……婚前契約それを作れば、おまえたちのことを制御できると思ったんだ」

 それはいかにもデイミオンらしい考えで、そのことは理解できた。

「でも、気持ちを制御するのは、難しい」リアナは涙に濡れた頬をぬぐって、呟いた。

「紙の上だけの結婚じゃないわ。少なくとも、フィルにとっては」


「クソッ」デイミオンは悪態をついた。

「あいつを愛しているのか? 俺と同じように?」


「今は同じ重さじゃないわ」

 リアナはためらいながら言った。

「でも、夫婦つがいとして過ごせば、愛するようになると思う。フィルに惹かれる気持ちが、どこかにはあるの」

 優しいくせに嘘つきで、言葉ではリアナを傷つけても、彼女のためになにを犠牲にすることもいとわない。矛盾だらけの英雄で竜殺し。フィルバート・スターバウを愛さないでいるのは、今のリアナには難しかった。

 


「……わたしの強さを信じてくれるあなたが好きよ、デイミオン。国のこともアーダルのことも、重荷は二人で分けあいたい。だけど不安なの。わたしたちが一年後、どうなるのか」リアナは言った。

「わたしが第二の夫を持つなら、あなたもいずれ繁殖期シーズンの務めに戻ることになる。そうやって、長い時間をかけて少しずつ関係が変わっていく。グウィナとハダルクみたいに……。フィルのことは大切よ。でも、それが怖い」

「……。……」


 デイミオンが苦しみ、決断に悩んでいることが伝わってきた。あの〈血の呼ばい〉があったころとは違うが、お互いの考えが手に取るようにわかる瞬間が、二人にはある。そうだとしても、夫は自分の決断をくつがえすことはしないだろうということもわかっていた。フィルバートと同じように、あらゆる苦難を予想しても、やるべきことはやりとげるのがデイミオン・エクハリトスだった。あまり似ていない兄弟の、数少ない共通点かもしれない。


「お願いがあるの」デイミオンの胸から顔をあげて、リアナは言った。

「あなたとアーダルが使うを、わたしに確認させて。わたしとレーデルルとで、精神同期を一度ためしてみたい」


「だめだ」デイミオンは即座に否定した。夫婦関係のもの思いからさめたような、驚いた顔をしている。

「今回の件で、無鉄砲を反省したんじゃなかったのか? どうして俺がそれを認めると思うんだ?」


「背中の傷を見たでしょう? もう、ほとんど治りかかっている」

 リアナは自分の背を指さしてみせる。「わたしは心臓を損傷しても生き延びられる。たぶん、いま生きているあらゆる竜族のなかで一番頑丈よ。エンガス卿の実験はぞっとしないけど、あなたの安全を確認するためなら……」

「そんな必要はない。おまえが頑丈だと思ったこともない」デイミオンはぴしゃりとはねつけた。

「青と黄のライダーたちがそれぞれ安全性をチェックしている。妻であるおまえが、わざわざためす必要はない」


「だけど、イニ以外にはまだ誰も成功した人はいない。でしょ?」

「……。ひとつの成功例があれば十分だろう。危険な兆候があれば、監視役のライダーがすぐに〈呼ばい〉を断ち切るようになっている」


 だが、リアナは引かなかった。危険があろうが、なかろうが、どんなものかもわからない装置に、愛する夫を預けられない。いま急に思いついたわけではなく、フィルとの結婚よりも前から考えていたことだった。

「危険なものじゃないんでしょう? お願い、デイ、一晩だけでいいの」


 今回は、彼が受けいれるまで説得するつもりだった。

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