第48話 目覚めのキスを待つ、夜明けまでのあいだ
「一本の剣ではなく、一人の男としてわたしを愛して」
その一言は彼女の意図通り、〈竜殺し〉の逃げ道を塞いだ。そして、手指のキスさえ許さないリアナに、フィルは文字通り打ちのめされた。
「服従と懇願のキスは、もういらない」
♢♦♢
星が輝きを失い、東の空がしらじらと明けはじめた。
部屋のなかは青く
献身、恋慕、ロマンという名のやせ我慢。つまるところそれがフィルバートの仮面だった。
なのにリアナはどこまでも現実的で、容赦がない。
「一本の剣ではなく、一人の男として、か……」
どうやったらそんなことが可能なのか、フィルには思い浮かばなかった。
もともとは、デイミオンが描いた計画だった。だが今となっては、うまくいく要素がひとつも見当たらない。リアナは、二人の男を夫に持てるほど器用には見えない。
あの男が配偶者の座をちらつかせたことだって、結局のところリアナがフィルを愛するはずがないという軽視が基盤にあるのだ。もしも彼女の愛を対等に争うことになれば、デイミオンこそ、それに耐えられないだろう。
身分も立場も、髪と目の色も、
そして俺は――
思いをうち破るノックの音。
「おやまぁ、色男が窓台に座ってもの思いとは」
軽口をたたきながら、ヴェスランが入ってきた。トレイからはほんのりと、甘い香りと湯気が立ちのぼっている。
「陛下におめざを焼いてきましたよ。マドレーヌはお好きでしょうかね?」
「……これから投降しようっていうのに、焼き菓子か?」
「口があるかぎり、食べさせるのが私の仕事ですからね」
ティーワゴンから茶器を取りだし、慣れた手つきで茶をそそぐ。護衛や近侍、あるいは暗殺者としての仕事に、茶の接待は欠かせない。フィルにその手順を教えたのは、ほかならぬヴェスランだった。
「カミラもよくそこに座っていた。あなたと同じように両ひざを立てて、アルコーブに収まるようにしてね。よくくつろげるものだと感心しましたよ」
「俺の部下のカミッロは、男だったはずだがな」フィルが言った。
それは昔の名前、昔の話だった。
戦時中、ハートレスのみの部隊を率いていたとき、そこに派遣されてきた高位の
フィルは部下の安全のために、信頼できる者に彼の身柄を預けなければならなかった。部下は、貴族たちとのいらぬ争いを避けるため、亡くなるまでこの館でひっそりと暮らしていた。名目上は、商人コーリオの妻カミラとして。
「あいつがここで暮らす間、ずっと上司と部下でしかなかったはずなんですがねぇ。私は男色家というわけでもなし」
ヴェスランは、自分で焼いたという貝型の小さな菓子をつまんで自分の口に入れた。焼きあがりに満足したようにうなずき、続けた。
「妻だ夫だと周囲に嘘をつき続けてきた、その
それを聞いたフィルは、なにかが心に引っかかったように黙りこんだ。
ヴェスランが入れたばかりの茶を手わたす。
熱い茶をすすり、その液体をぼんやりとのぞきこみながら、フィルはためらいがちにうち明けた。
「リアナが、……俺を夫にすると」
「最善の一手じゃないですか?」ヴェスランはその言葉を予想していたように、快活に言った。
「上王リアナの第二の配偶者となれば、デイミオン陛下だけではなく、五公十家もあなたに手出しできなくなる。リアナ陛下は夫が不在のあいだも、〈竜殺し〉の剣で守られる」
「だが、結婚なんて……結局は契約だろう」
「……そう、結婚は契約ですよ。世間の計略や、よこしまな思惑からあなた方を守ってくれる。私とカミッロのようにね」
ヴェスランはそう言って茶をすすり、ラベンダーと白に明るくにじみだした空をまぶしそうに見やった。フィルバートの内心を、同じ〈ハートレス〉として見抜いているのだろう。さらに続けた。
「嘘をつき続けると、それがいつか本当のように思えてくるんです。私とカミッロの場合は、それでもよかった」
「……」
「だが、あなたは違う。『彼女を愛してなどいなかった』と言い続けて、いつか、あなた自身の中の愛まで失われてしまってもいいんですか?」
その想像は、フィルを
「これが愛なら、剣を持たずに戦場に出るようなものだな。飢えた竜の前に丸腰で立っているような気分だ」
ヴェスランは笑った。「音に聞こえた〈竜殺し〉にも、弱点のひとつくらいあっていいでしょう」
「愛する女性が弱点? 陳腐な詩に出てくる英雄みたいだな」
「あなたは英雄ですよ、少なくとも私たちにとってはね」
「俺は、英雄よりも、部下を死なせない指揮官になりたかった」
しゃべりながら、フィルは自分が何に引っかかっているのか理解しつつあるような気がした。「幸せな道を選ぶと、あいつらを忘れてしまうような気がした」
リアナの治療のために訪れたニザランで、「自分は身勝手な人間だ」とクローナンに打ち明けたことがあった。クローナンは、いまのヴェスランに似た穏やかな顔で、「いつまでもそうあれとは、誰も言うまい」と
「あなたのそういうところが、〈ハートレス〉たちの希望で、救いだった」ヴェスランは優しく言った。「だが、もう英雄の虚像から自由になっていいころです。……あれこれと思いわずらうのはもうやめて、陛下に幸せにしていただきなさい」
「リアナに……」
――ほかの生き方があるはずよ、フィル。いっしょに探そう、わたしも探すから。
自分の重荷を、リアナにまで背負わせたいとは思わない。
だが、ともに手をつないで歩いてくれるなら、もう少しだけ進めるかもしれない。
そんな風に考えるのは許されるだろうか? ……
「さて、私は一足先に準備にあがらせてもらいますよ。〈
ヴェスランがワゴンを片づけはじめる。
フィルはなんとなく気まずく感じた。
「早く出ていけ。好きにしろ」
「はいはい」
思春期の息子に対する母親のようなあしらいをして、ヴェスランは部屋を出て行こうとした。扉の手前で、こんなことを言う。
「陛下を起こして、おめざをあげてくださいね。……それから、『愛してる』とちゃんと口に出して言うんですよ」
フィルは照れ隠しと苛立ちまぎれに、手近にあった木さじを投げつけた。それを見こしたヴェスランが扉をさっと閉め、かつんと音を立ててさじが落ちた。
♢♦♢
ヴェスがいなくなったのを念のため確認してから、寝台にそっと近づいた。ふわふわした金髪が枕に広がっているのを、ひと房手に
心を奪うような微笑みや、肌のやわらかさや、匂いのことならわかる。自分がそれを強く求めているのを知っている。だが渇望と愛は違うものかもしれない。
リアナの強さと博愛をまぶしく思う。
生き生きとした感情や、行動力が好ましい。
利他的なところは、あまり他人に見せてほしくない。これらが愛?
(デイミオンはたぶん、こんなことを思い悩んだことはないんだろうな)
そう思うと苦笑が浮かぶ。
たとえその感情にどんな名前をつけるにしろ、リアナは彼の人生でただ一人の女性だ。
「愛してる」と言えるかどうかは、まだわからない。
だが、目が覚めたとき彼女におくるキスは、服従でも懇願でもなく対等なパートナーへのものでなければならない。甘い匂いのする、まだ温かい焼き菓子とともに、フィルバートはそのときを待った。
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