第47話 一本の剣ではなく、一人の男として

 フィルは落ちつかない様子で腕を組みなおした。

「さっきの……ヴェスに言っていたこと。もう一回言ってもらえませんか」

「『わたしの力で、かならず助ける』?」

 答えたリアナを、ハシバミ色の目が困ったように見下ろしてくる。口もとに手をあてて、「えっと、そこじゃなくて」と口ごもる。


 ――まったく、この男は。理由を話してくれるんじゃなかったの?

「『フィルを愛してる』」リアナは言ってやった。

 

 フィルバートはぱっと顔を輝かせ、彼女を抱きしめた。万感の思いをこめるような抱擁のあと、小さな声で「ありがとう」と言った。

「心臓が最後の鼓動を打つとき、俺は今の言葉を思いだすと思う。それがどこであっても」

 それはたぶん――献身的なくせに本音をみせない、このやっかいな男のセリフとしては、もっとも愛の告白に近いものなのだろう。

 リアナにもそれはわかっていたが、この状況を打開するためには、もっと踏みこんだ言葉が必要だった。


「『俺も愛してる』はないの?」


 リアナの問いに、小さな声が返ってきた。

「……これが愛なら、全員が破滅する」

 フィルは彼女の目をのぞきこむようにして、世界のすえがかかっているような真剣な顔で答えた。

「誰にどんな破滅が起こっても構わないけど、あなただけは――俺は、あなたが無事でいないとだめなんだ。それだけは、口に出せない」

 リアナは、フィルの腕の中でため息をもらした。そこまで熱烈な言葉を口にしながら、「愛してる」のたった一言をあくまで口に出さない、その強情さにあきれる。


 でも、彼の言い分も正しい。

 ルーイとの逢瀬に強い嫉妬を抱かなかったのは、フィルの優先順位が絶対に自分から動かないことをどこかで知っていたからだと、今では思っていた。デイミオンと同じくらい、自分も身勝手な期待をフィルに抱いている。


 フィルバート・スターバウの世界は、白と黒とが入り混じる領主貴族たちの社交とは違う。いつどんなときでも、リアナ一人から優先順位を動かさないフィルバートを、が必要としているのだ。

 だからこそ、愛を打ちあけないフィルの献身につけこんで、自分のために利用してきたのだった。「愛している」と告げられれば、夫ある身のリアナはそれを断るしかなく、結果、フィルバートを失うことになる。これが、フィルの言う「破滅」の意味なのだろう。


 こうして、三人の関係は、危うさをはらみながらも保たれてきた。だが、もう限界だった。言葉に出さなくとも、フィルの行動は護衛の範疇はんちゅうをはるかに超え、もはや引きかえすことはできない場所に来てしまった。

 デイミオンに剣を向けた時点で。


 フィルもそれをわかっているのだろう。これほどの甘い接触は、久しぶりだった。腕をゆるめ、リアナの髪をはらって額をあわせる。一呼吸前にキスをされたように、目の焦点も合わないほど近い。


「あなたの望みどおり、話をしましょう」

 指の背で、リアナのやわらかい頬に触れながら、フィルは言った。「誰かのためにあなたが傷つくような無茶は、もうしないと約束してください。ちゃんと寝て食べて、危険がありそうな場所には近づかないこと」

 甘いささやきで空気が動き、唇が触れたのかと思うほどだった。

「フィル……」

 リアナが言う。「あなたがどこかへ行ってしまいそうに聞こえるわ」


 唇が動いて、ほほえんだ気配がした。

「夜が明けたら投降しますが、あなたは落ちついていてください。……裁判になるのか、秘密裏ひみつりに処理されるかわかりませんが、どのみち俺に重い処分がくだることはありません」

「どうして? どうしてそんなことが言えるの?」

 フィルはかがんでいた背を起こし、柔らかく彼女を抱いた。

「あなたはゼンデン家の嫡子でありながら、自分の氏族を持たず、後ろだてが弱い。希少な能力を持つ濃い血筋で、妊娠可能な年齢にある。自分で思っているより、あなたの政治的価値は値を上げ続けている。……デイミオンが、俺に頭を下げてまでシーズンに参加させようとした理由です」


「デイ一人では、わたしを守りきれないから」リアナは言った。


「そう。俺を排除することは、デイにとっては、あなたを守る切り札をむざむざ捨てる行為になる。あの人がどういう行動を取るか、あなたにもわかるでしょう?」


 そこまで言われてようやく、リアナはフィルの目的にたどりついた。いつどんなときでも、リアナのためだけに動くこの男が、なぜ反逆と取られかねない行動に出たのか。なぜ処罰を恐れないのか。もう会えないような、さっきの口ぶり。


「フィル、あなた――自分からを願い出るつもりなのね。デイの計画は、あなたなしには成り立たないから」


「そうです」フィルは微笑んで、首肯した。

「俺は、あなたが欲しいものをあげられます。――デイミオンがアーダルの治療をあきらめ、あなた一人と過ごす結婚生活です」


 そして、ためらいがちに彼女の顔をすくい上げる。「俺は、明日にはいなくなる。だから、その代わり……あなたとの一晩を俺にください」

 フィルの大きな手に顔をつつまれたまま、リアナはその言葉を考えてみた。デイミオンとの結婚生活。交換条件としての一夜の交歓。


「それが――フィルの望み?」

「ええ。この世の何よりも、今あなたが欲しい」前にも聞いたことのある、胸が痛くなるほど切実な言葉だった。


 二人のあいだにはすでに、危険な熱が生まれはじめていた。これほど顔を近づけて、キスのことを考えないでいるのは難しい。

 こうやって甘く刹那的に結ばれることが、本当にフィルの望みなのだろうか? それをかなえてあげることが、フィルの幸せ?

 ――あの嵐の夜のように?


(そして、、フィルはいなくなる)

 彼が出奔しゅっぽんしたことで、リアナは死ぬほど腹を立てた。

 生まれたときの名を捨て、ハートレスとして、ただ一本の剣としての生き方しか選べなかったことを知った。

 敵地にいるのを見て、不安でたまらなかった。

 そして――胸を焦がすほど会いたかった。強い思いが一気によみがえってくる。


「あなたを助けるとヴェスランに約束したわ。フィル、こんな最後は許さない」

 リアナは自分の計画が、かっちりと音を立てて完成図を描いたのがわかった。いま、自分が取ることのできる最善の手が。


「アーダルの治療を受け入れるわ。……デイが治療期に入れば、わたしは彼の代わりに再び王になる。デイミオンのいないあいだ、わたしを支えて」


 フィルは驚きに目を見開き、無意識のように首を横に振った。

「それは――リア、俺は……」


「あなたの逃げ道は、わたしがふさいであげる」

 リアナはフィルの顔を手ではさんだ。ハシバミ色の目には、これまで見たこともないような動揺があらわれていた。

 だが、この先になにが待つとしても、もう迷わない。


「一本の剣ではなく、一人の男としてわたしを愛して」

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