第49話 ……でも、覚悟は決めました

 ヴェスランは二階の窓から正面玄関のあたりを確認した。


 朝もやも晴れて爽やかな空気のなか、紋章なしのお忍びの竜車が止まっている。見ると、そこから私服姿の従者が出てきて、案内されるように長身の男がそれに続いた。護衛役のライダーらしき男が一人、それに続く。いずれも、長衣ルクヴァの色はまちまちで、官位や役職とは関係ない私服だ。


(デイミオン王。やはりみずからやってきたか)

 これほど近くに拝するのは久しぶりだが、あいかわらずの男前だ。フィルバートに似ているところはあまりない。威圧感さえ感じる美貌とみごとな長身とを、濃灰色の長衣ルクヴァに包んでいる。


 ともあれ、それでのだいたいの意図がつかめた。隣室のフィルバートも同じものを確認しているはずだ。ハートレスである自分には聞こえないが、上王リアナが自分の古竜を通じて王宮と通信をはじめている。

 武器としての古竜も、竜騎手たちも多数配備されているが、ひとまず、全面対決は避けられそうだ。ヴェスランは胸をなでおろした。リアナの説得が奏功そうこうしたのだろう。

 焼き菓子を口に放りこみ、玄関のほうへ降りていく。年を取るごとに甘いものが欲しくなるのはなぜなのだろうな、となんとなく思った。


 階段を降りきったところで、きんきんした中年女性の声とかち合った。

「旦那様! あの竜車はなんですか!」

「おお、おはよう、サラ」

 簡単な料理と掃除をやってくれている、かよいの家政婦が目の前に立っていた。彼女は玄関ではなく勝手口を使うので、ここで鉢あったわけだ。ヴェスランは快活に声をかけるが、女性は憤懣ふんまんやるかたない様子である。

「朝からあんなにお客が来るなら、前もって言っておいてくださいよ! こんな時間じゃ、なんにも出せやしませんよ」

「いや、すまないね。昨夜おそくに来客があってね、そのお迎えだよ。私自身のお客じゃないから、おもてなしは必要ないからね」

 どうやら、国王その人の車だとは気がついていないようで、ヴェスランは笑顔のまま内心安堵あんどした。あとは、リアナとフィルが降りてきたときに驚愕して茶器を割ってしまわないよう、あらかじめ言ってきかせなければいけない。


「今朝は母屋の掃除はいいから、お茶だけ出してくれるかい。立ち話で済むかもしれないが」

 言いながら、彼らが屋敷に足を踏み入れることはないと確信していた。フィルバートがリアナを連れて屋敷外に出るのであれば、王が危険を冒してこちらに来る必要はないからだ。


「また、そんな気取った菓子を焼きなさって。どうせあたしらみたいな学のない女は、竜肉煮込みしか作れないですからね」

 主人の気も知らず、家政婦は怒った様子でどすどすと厨房に入っていった。

「君の竜肉煮込みは王都の店でも出せる味だよ」背中に向かって、ヴェスランはいちおう世辞を言っておく。


 普通に、自然に。騒ぎたてる者が出ると、この計画は難しくなってしまう。


 相手も同じ意図を持っている、とヴェスランは思った。タマリスの市民なら王の顔がわからないということはないだろうが、シーズンのあいだは貴族たちがおたがいの家を行き来することはめずらしくない。王の行動もそのように見られるだろう。

 王配を取り戻そうとする軍事行動ではなく、ありがちな貴族同士の訪問として。うまくいけば、一人の血も流さず、この危機を終えることができる。


 上王リアナは、自分の負傷からはじまる今回の狂騒のすべてを、シーズンにおける配偶者間の関係性の一時的混乱――下々の者に分かりやすく言えば、痴話げんか――という形で収めようと画策している。だが、そううまくいくかどうか。


「お手並み拝見、といきましょうか」ヴェスランは呟いた。


 ♢♦♢


「……目の色」

 フィルバートのささやきが、唇のすぐ横にあった。


「え?」リアナが問い返す。

「竜術を使ったせいかな。スミレ色に戻ってる」

 そう言うフィル自身の目は、左だけ緑が濃い。間近で見ると、不思議な色合いだった。


 唇を離すと、おたがいに気恥ずかしい沈黙が流れた。

 これなら、ナイメリオンたちの前で演技したときのキスのほうが、よほど恋人らしかったとリアナは思う。覚悟を決めてやってみたのに、二人ともぎこちなく、まだよそよそしい。

 後ろめたさもあった。結婚して以来、はじめての夫以外の男とのキスだ。自分はいま、どんな顔をしているのだろうかと思う。


 フィルのほうは、気恥ずかしさにくわえて、自分をまだ抑えているようなところが見えた。彼は、リアナを抱くつもりだったのだ。抱きしめたときの力の強さが、欲望の調整に苦労していることのあらわれのようだった。


「ここから先は、デイミオンの許可を取ってからです」

 その言葉に、リアナはどきりとする。

 先に進む、という性的な意味合いというだけではない。「許可」という言葉は、正式なシーズンのに沿うつもりが彼にあることを示していた。これまでにはなかったことだ。


(一歩前進、というところかしらね)と、リアナは思った。前進ではなく、道もない暗闇のなかにやみくもに足を踏み入れているのかもしれないが。

 もとはと言えば、黒竜アーダルの治療を優先するため、デイミオンがはじめた計画だ。リアナもフィルも、理由は違えどそれを拒んでいた。こんな形で計画通りになるとはデイミオン自身も思っていなかっただろう。

 でも、これがいま考えつく最善の道だ。


 ぎこちないキスのなかに、抑えられない情熱があった。その先を切望している二人の衝動をおたがいが感じた。それが、いまのリアナには恐ろしい。

(結婚式の夜デイミオンが恐れていたのは、こういうことだったのかしら。それがわかっていたなら、デイ、どうしてこんなことをはじめたの?)


「わたしたちのどちらにとっても、大変な道になるわ」

 そう言って、目を合わせる。「覚悟はできた? フィル」


「百の敵を相手にするよりも、あなたが手に入るかもしれないことのほうが、俺には怖い。……でも、覚悟は決めました」

 フィルは身体を離し、口の端だけをあげて笑った。「行きましょう。あまり待たせると、せっかくすり合わせたの意図を台無しにしかねない」

 二人はおたがいの服装を確認した。

 フィルバートは海老茶の長衣ルクヴァに空色の腰帯がついたもの。リアナはサーモンピンクのデイドレスで、いささか少女趣味らしいヴェスランのセンスが垣間見える。いずれも、やや、いかにもシーズン中の男女らしい服装だった。



 階段を降り、扉を出ようとするところで、フィルは大きく息を吸った。ごく普通の昼間の外出のように、リアナに向かって左腕を差しだす。この先は剣ではなく、マナーと儀礼と言葉だけが武器。そして、フィルバートを守るため、衆人環視のなかでの芝居を演じることになる。


 ――夫、デイミオンを相手にして。


 

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