第45話 温かいスープの幸福
ヴェスランの館でリアナがまず思い知らされたのは、フィルが彼女の無茶に心底腹を立てているということだった。
覚醒してすぐこそ、彼女が無事だったという事実で怒りを忘れていたようだが、リアナがあれやこれやと質問をはじめると顔をしかめて黙りこんでしまう。そして、「そもそもなんで、俺の背後で矢を受けたりなんかしたんです」と冷たく問われた。
「それは……」
リアナは答えにつまった。「わかんないわよ、そんなの。気がついたら飛びだしちゃったんだし」
それを聞いたフィルの顔は、いちばん不機嫌な時のデイミオンそっくりだった。すぐには言葉も見つからないほど怒っているときの顔だ。
「あなたが立場もわきまえずに無分別なことをするから、俺やケブがどんなに身を
吐き捨てるような口調に、リアナはむっとした。「そんな言い方しなくてもいいでしょ。あなたがわたしを大事に思ってるみたいに、わたしだってあなたが傷つくのが怖いのよ。とっさに
「それが無用だと言っているんです」
フィルはぴしゃりと言って、首を振った。「俺の気持ちなんて、あなたには到底わからないでしょうが――」
「どうして素直に、わたしのことが心配だって言えないの?!」
「心配!? よくも、そんな生ぬるいことが言えますね。あのとき――俺の腕の中で冷たくなっていくあなたを抱いて、どんなに恐ろしい思いをしたか」
そのときの感情を思いだしたように、フィルは顔をそむけ、肩を震わせた。
「……あなたにわかってもらおうというのが間違いだった」
自分からはじめたくせに、フィルは手を振って、この話題はもう終わりだとしめした。そして、窓の側へと戻ってしまう。
「フィルの馬鹿、意地っ張り!」リアナの声が追いかける。
理由を話すと言ったくせに、フィルの背中は彼女の問いを拒絶していた。夜は長いとはいえ、本当に話してくれるつもりがあるのだろうか。
「今日この夜は、俺と一緒に過ごしてください」とフィルは言ったけれど、そこにロマンチックな意味合いはなくて、やはり単に「この部屋で一晩過ごせ。俺はここで見張る」というだけの意味しかないようだった。
だが、窓の脇にスツールを置いて浅く腰かけ、そこでパンをかじりながら外の様子をうかがっているフィルを見ると、だんだんと怒りがおさまって、罪悪感がわいてきた。フィルは冷たい食事が嫌いで、温かいスープが好きだ。それは従軍中に冷たい食事しか取れなかった経験があったから。
なのに結局いまも、冷たいパンをかじらせている。おそらく、自分のために。……
もの思いにふけっていると、軽いノックの音がした。フィルのほうを見るとうなずいたので、リアナは寝台から降りて扉を開ける。
「ヴェスラン」
「こんばんは、上王陛下」
そこにいたのは屋敷の主だった。大きめのトレイに載せた食事を運んでおり、ドアをおさえるリアナに礼を言って寝台脇の小卓に下ろした。
「ご挨拶もまだで、失礼しました。お加減はいかがですかな?」
「ずいぶんいいわ。……今回のこと、フィルに巻きこまれたんでしょう。ごめんなさい」
「いいんですよ。貧乏くじは慣れています」
ヴェスランは、社交辞令ではない優しい笑みを浮かべた。「食べられそうなら、すこし召し上がってくださいね。……コックを帰してしまったので、今晩の食事は私が用意しました」
ヴェスランは、ちらりとフィルのほうを見た。窓のほうを向いたままだ。
(フィルは、ヴェスランを信用しているんだわ)と、リアナは思った。雪山越えのときに準備をしてくれたのもこの男だ。補給係だったという過去や、商人という隠れ蓑があるにしろ、フィル本人がよほどヴェスランを信頼していなければ、リアナを連れてこようとは思わないだろう。
「ソーセージとチーズ入りの野菜スープと、卵、干し果物。それにパンと。質素ですみませんが」
「ありがとう。温かくておいしそうだわ」
「それから、これはあなた用の軽い鎮痛剤です」
ヴェスランはそう言いながら、リアナのほうをじっと見た。そのまなざしの意味するところを汲み取って、リアナも目線だけで返す。なにげないふうに言う。
「粉薬なの?」
「ええ。痛むようなら、お茶と一緒に飲んでください。食後にね」
「お茶は?」
「湯を沸かしているので、あとでお持ちしますよ」
♢♦♢
スツールをひいて窓台にトレイを置き、フィルと向かい合うような位置に座る。いぶかしげな目で見てくる男に、リアナは「スープ。温かいのが好きでしょ」と言った。
「俺の好物を覚えていてくれたんですね」
フィルは――前にも一度見たことがある、驚きと嬉しさが入り混じったような顔をした。さっきまであんなに不機嫌だったくせに、こんな小さなことで機嫌をなおして喜ぶ男を見て、きゅんと胸が痛む。
リアナはあわてて、なんでもない顔をとりつくろう。
「いいから、口を開けて」
木の
「おいしい。あの中年男が作ったとは思えないな」
「わたしの給仕がいいのよ」
「そうかもしれない」
フィルは横顔だけを見せて、幸せそうに笑った。
(もっと幸せになれるはずだわ、こんな小さなことだけじゃなくて)
そうリアナは思ったが、ではフィルにはどんな幸福がふさわしいのかとあらためて考えると、具体的には思いつかなかった。
――領主として、夫として、父親として。
ニザラン、あの妖精の里で、リアナはかつてそういう幸せがあると彼に
領主貴族としての地位も、夫としての幸福も、父親としての責任も、その気になれば手に入るものを、この男はあえて手にしようとしないのだ。まるで、自分はそれらにふさわしくないとでも言うかのように。
夫でも愛人でもなく、ただ一本の剣としてリアナの側にいること。
フィルバートはそれだけを求めているように見えた。
(でも、わたしは……わたしの望みは……)
綿入りのカバーで保温されていたポットから茶器に湯をそそぎ、片方を彼に手わたした。フィルは軽く息を吹きかけるだけで、疑いもせずに飲み
額から喉もとまでを思わず指でたどってみたくなるような、男性らしい整った横顔をしていた。
あせたような砂色の短い髪が、同じ色の眉にわずかにかかっている。光の加減で何色にも見えるハシバミの目は、どこか本人の性格を思わせる。こんなふうに長い間、フィルバートだけを見つめていたことがあっただろうか。
たとえ、彼に盛った眠り薬が効いたかどうかを確かめるためといえども。
♢♦♢
フィルバートが寝入ってしばらく経つと、ヴェスランがそっと部屋に入ってきた。その姿は、夜の子ども部屋に入ってくる父親のようで、おかしみを誘った。
窓台に寄りかかるようにして眠る男を、リアナが使っていた寝台に運ぶ。フィルはなにか不明瞭なことを呟いたが、結局は眠気に勝てないようだった。
「やれやれ。さすがの戦鬼も、愛する女性から差しだされた飲料に疑いは抱かなかったと見えますね」
ヴェスランは、ほっとしたようにそう言って近づいてくる。
「愛するって……」冷やかされたようで、つい聞きとがめる。「すぐに寝ちゃったけど、大丈夫なの?」
リアナのほうは、めずらしいフィルの寝姿に心配になる。ヴェスランの目くばせから、薬のことを推測して協力したのは自分の判断ではあるのだが。
「私が普段、
まだ心配でいるリアナを、ヴェスランは落ちつかせるように付けくわえた。「眠りの最初の部分を助けるだけの薬です。このまま朝までぐっすりかもしれないし、すぐに目を覚ますかもしれない」
そして彼の代わりというように、窓際のスツールに座った。「しかし、少しばかりの時間は、あの地獄耳も休んでいるでしょう。……」
「それで?」ようやく安心して、リアナは本題を切りだした。「ここまでする理由はなに?」
「お話したいことがあります。連隊長抜きで」ヴェスランは、これまでに見せたことのない
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