第42話 いずれ、あなたの血肉になる


 フィルはリアナを抱きかかえて一階に下ろし、厨房の片すみに用意した湯桶を使って彼女を入浴させた。湯を沸かす人手が一人しかないので、運搬の都合上だった。その、つまりヴェスランが、衝立ついたての向こうで愚痴を言っている。


「上王陛下のお風呂係は光栄ですがね、昼間っから茶番につきあわされるこちらの身にもなっていただきたいものだ」

 しゃれた上衣を脱ぎ、袖まくりしたシャツに革のベストという軽装になると、ヴェスランは商人というよりもやはり兵士に見えた。持ち手を布巾でくるんで大きな鍋を持ちあげると、たくましい前腕に血管が浮いて見える。


「店番くらい誰かに任せられるだろう」

「その店番もしたことのないお坊ちゃんが、よく言いますよ」


「おまえにはまだ貸しがある」フィルバートは、元部下の皮肉を受け流した。

 彼自身も、ヴェスラン同様ジャケットを脱いでシャツもズボンも裾をまくっている。手桶で湯をまわしかけると、リアナは弱々しくうめいた。デーグルモール化した以前にもあった黒い樹状の模様が、未知の部族の入れ墨のように彼女の裸体を覆っている。


「お腹がすいて、苦しいんですね。すみません」

 ヴェスランに話しかけるのとは正反対の、気づかわしげな口調でフィルは言った。白い額に貼りついた髪をそっとかきわける。

「もう少しだけ我慢してください」


「先にっていただくほうがいいのでは?」

 湯を運んできたヴェスランも、心配そうな口調になる。


「どれくらいの血液が必要になるかわからないんだから、ある程度準備をしておきたい」と、フィル。「それに、リアナがあんな格好をさせられているのは、我慢ならない」


 衝立にかけられたまま、すっかり薄汚れた緑色のドレスを見やってヴェスランはため息をついた。服飾にたずさわる商人として、上官殿の言い分もわからないではない。だが、当人は二着しか私服を持たないようなタイプで、しかもこんな危機的状況にあって、女性の服にこだわるというのも妙なことに思えた。


 その疑問も、すっかり洗い清められて新しいドレスを身に着けたリアナを前に霧散してしまった。

「よくお似合いですよ、リアナ陛下さま。お美しい」

 ヴェスは膝を折って目をあわせ、娘に対するように優しく声をかけた。当人に聞こえているのかどうかは、わからなかったが。


 シンプルなカッティングを重ねた白の部屋着は、彼がイーゼンテルレの商人から買いつけた最新流行のものだった。ヴェスとしては正直、どこに請求書を出したものかと悩むが、思わず目を奪われる美しさというのはお世辞ではない。若い女性がきれいな服を着ているのは、いいものだ。平和を実感できる。

 その平和をオンブリアにもたらしたのが、上王リアナ・ゼンデンなのだと思えば、できる限りのことはしてさしあげたいと思うのだった。

 ただし、それはリアナに対してだ。この男のほうは……。



 濡れた浴布を湯にひたして、フィルは自身も簡単に清拭せいしきをすませていた。砂色の短髪から、すっと通った鼻筋に水滴が落ちている。

 細身に見えても、剣をふるう上半身の筋肉は無駄なく鍛えられているのがわかる。そして、胸と言わず背中と言わず大小の傷跡が走っていた。〈竜の心臓〉を持たないハートレスたちが忠誠を疑われた戦時中、この男が国を守るためにこれほどの傷を負っていたことを、ほかの誰が知っているだろうか。


 ヴェスランは複雑な思いで青年の傷跡を見ていたのだが、当人はそうは思わなかったらしい。

「じろじろ見るな、気色悪い」

「はいはい。……服はそこにありますからね」

「布が多くて着づらいシャツだな」

「文句を言うなら着ないでけっこう。宿無しみたいに、裸でうろうろすればよろしい」

 かつては年下の上官と年上の部下だった男たちは、気がねなく言い合った。

 

 ヴェスランが好むイーゼンテルレ風のシャツは襟ぐりが広く、袖口がゆったりして、オンブリアの禁欲的なシャツよりも青年を色っぽく見せていた。が、当人はそれを気にかける風はなく、声がけしてからリアナを抱える。

「リアナ。すみません、シャツから加齢臭がするかもしれませんが、俺です」


「加齢臭とは失礼な。あなただって、私の歳になればそうなりますよ」ヴェスランは横から憮然ぶぜんとした。


「二階の客間に移るぞ。ヴェス、見張りを頼む」

「ちょっと……ここを片付けて、食事を持ってきますから、先に上がっていてください」

「わかった」

 フィルバートはそう言って出ていく。

 厨房には扉がないので、彼がリアナを横抱きにして階段を上がっていくのが見えた。白い部屋着のすそが、段差にすれてさらさらと衣擦れの音を立てる。


(状況さえ違えば、まるで新居に足を踏みいれた夫婦つがいのようなのにな)と思い、ヴェスは先ほどの暴言も忘れて、フィルがかわいそうになった。なんだかんだと言って、息子のように思っている部分もあるのだ。……が、頭を振ってその考えを追い払う。

(リアナ陛下は王配であらせられる。それに、感傷的になっている場合ではない)

 おそらく、彼らに用意された時間はごく少ないのだ。


 ♢♦♢


「失礼します、陛下」

 リアナを寝椅子カウチに座らせ、自分はひざまずく姿勢で、フィルはそう言った。

 こういう虚礼がばかげていることは百も承知している。だが、エクハリトス家や掬星きくせい城での彼女の扱いを思いかえすと、せめて自分だけでも、絶対に変わらない忠誠を示したいと思うのだ。

 竜族のあらゆる規範より、主人のことを優先する。フィルバートは一人の男ではなく、一本の剣だから。


 そして、あらためて隣に座る。

 ゆるく波打つ金髪を背中側に流してやり、顎に手をかけて顔を上向け、血の気の薄い唇付近に鼻を近づけた。やはりというべきか、かすかに妖精罌粟エルフオピウムの匂いがする。

(あの治療師ヒーラーたちの誰か一人くらいは、見せしめに殺すべきだったな)

 屋台でパンを選ぶように自然に、フィルは思った。


「あなたが俺の城、俺の王だ。たとえ血をすするデーグルモールであっても、なにも変わらない」

 婚姻つがいの誓いのようにおごそかに告げると、ナイフで前腕を切った。ナイフのほうはあらかじめ、厨房で焼いて消毒している。

 腕に血の粒が盛りあがると、鉄さびに似た匂いが立ちのぼり、リアナの鼻がかすかに動いた。まだ薬が効いているのか、緩慢な動きで彼に近づいてくる。

 鼻先にそっと傷口を近づけ、匂いをかがせた。

 赤い舌先がちろりと動き、盛りあがった血の粒を舐めとる。


 効果はすぐに現れた。ぼんやりとしていた瞳が焦点を結び、餌を前にした獣のように顔を下げて、一心に傷口をむさぼっている。

 フィルのほうは、痛みよりも安堵のほうが大きかった。矢を射られてデーグルモール化してから、今までに数刻の時間が経過している。傷口を修復するのにもエネルギーを使うはずで、迅速に血液を与える必要があったのだ。


 力を入れて吸うのですぐに止血されてしまい、リアナはもの欲しげに近くを噛んでいた。フィルは自身の動脈を傷つけないように用心しながら、もう一度、さっきよりは深く切りつける。リアナは彼の前腕をつかみ、さらに一心不乱に血をすすった。瞳孔の色が淡い灰色からスミレ色に変わり、はぁはぁと荒い息が漏れる。

「苦しいですか?」

 尋ねると同時に、白い指がぐっと腕をつかんだ。危機感を覚える間もなく、ばねのように上半身をしならせたリアナが彼の首筋に噛みついた。

「ぐ、ぁっ……」

 さすがの痛みに、フィルもうめいた。

 竜族の歯は、人間と同じく、肉を切るようにはできていない。その歯で思いきり噛みつかれるのは、とがった石を突き刺されるようなものだった。

 首にも先に切り傷を作っておけばよかったと思うが、もう遅い。強い力で噛まれ、反射的に彼女を振り払わないように、フィルは必死に自分を抑えた。


 彼女の口を逃れた血の一滴が、ゆっくりと首筋を落ちて腕をつたう。その冷たい感触にぞくりとする。この量の血なら、それほど大きな傷口ではないはずだが、捕食されるような痛みと嫌悪感におそわれる。


 知らず、自分の太ももの上に彼女の膝が乗りあげていた。体格差があるので、リアナのほうがしがみつくような体勢になっている。思いきりつかまれた肩に、爪と指が食いこんで痛い。

 その痛みさえ、他人に味わわせたくない、と思う。

「俺だけだ、あなたに血を与えていいのは」

 自分の首筋に食いつく彼女の、冷たく小さな肩をフィルは撫でた。細い腰に手をまわし、しっかりと密着する。痛みと嫌悪のなかに、しだいに興奮が混じってくるのを感じる。


「わかりますか? 俺の血が、あなたの喉を通っていくのが? いずれ、あなたの血肉になる……」

 やわらかな髪を指ですき、愛する女性の甘い匂いを嗅ぎながら、フィルはそう囁いた。


 ♢♦♢


 しばらくして気がつくと、首まわりが息苦しかった。気を失っていたのか、浅い眠りから覚めたのかはわからない。両方かもしれない。


「ヴェス。そんなに締めると首がちぎれるんだが」

 包帯を巻いてくれている男に、フィルバートはそう言った。いつの間にか、部屋に入ってきていたらしい。


「自業自得ですよ。死人みたいな顔色をして」

 文句を言いながらも、ヴェスランはほっとした顔だった。「ラム肉とワインと、飛竜の肝。全部食べるまで見張りますからね」

「助かるよ」


 リアナの姿を求めると、すでに寝台に運ばれていた。白い腕を凶暴に彩っていた樹状模様が、ほぼ消えているのが見えた。この分なら、目が覚めたリアナは自分を取り戻しているだろう。なにが起こったかを知った彼女が、自己嫌悪に陥らなければよいが。

 考えながらもラム肉をほおばり、ワインで流しこんだ。空腹かどうかではなく、手が空いたときに食べる。そういう生活にフィルは慣れていた。


「なぜこんなことをしたのか、とは聞きません。あなたには無駄なことですから」

 窓の外を警戒していたヴェスランが、固い声で言った。


「ですが、どうするのかはお聞かせいただきたい。テオにはこちらの手の内は読まれている。こちらには大した備えもない。残された時間は短いですよ」


 フィルバートは目を閉じた。貧血のせいだろうか、つむった瞼の裏側で、ちかちかと光が踊っていた。どうするのか? 難しいことじゃない。自分が何をなすべきか、デイミオンに剣を向けたときからわかっていたことだ。

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