第34話 「血」と彼女は言った

「うぐっ……あ……」

 痛みのあまり息を吐くこともできないのか、リアナはむせるようにうめいた。安全な竜車にいるはずの彼女が、なぜそこから出てこんなところにいるのか、その疑問がフィルに浮かんでしかるべきだった。


 だがゾーンに囚われた兵士の身体は、疑問よりもまず戦況に反応してしまう。


 目前にまで迫っていた兵士二人を一太刀で薙ぎ斬り、ひるんだ第三の兵士のほうへ返す刀をかざしたところで、背中から荒くかぼそい制止の声がした。

「殺さないで」

「情けは――」

 鬼の形相で振り返ったフィルバートに、リアナは息もたえだえに囁いた。

「殺さないで、フィル、あなたのために」

 その言葉に水を浴びせられたようになって、フィルはくずれ落ちていく彼女を見下ろした。


 潮が引くように、「ゾーン」がみるみると消えていった。フィルは戦慄わななく手を彼女にまわした。支えなければ崩れ落ちてしまうのに、なぜかそうできず、ずるずると一緒にくずおれて膝をついた。

 手にぬるつく血、肉体の重み、そういった現実がようやく掌の感覚として伝わってくる。まるで魔法が解けたかのように、フィルの手から剣が落ちた。

 自分に向かってくる複数の足音が背後から聞こえた。だが、彼の耳はただそれを拾うだけで、脳に命令を伝えることはなかった。

 動けない。

 動く必要があるのかもわからない。

 こんなこと、こんなことが。

「リアナ陛下さまのもとへ!!」

 叫んだのは自分ではなく、別の男だった。ガキン、ギリッ、と打ちあう剣戟けんげきの音、兵士たちの足さばきの音。「治療師ヒーラー!!!」

 ケヴァンの声にこたえ、駆けつける味方たちの軍靴の音が遠くに聞こえる……。


 ♢♦♢


 巡回に出ていた竜騎手のなかに癒し手ヒーラーがいたのは、間違いなく幸運だった。国王夫妻の侍医でもあるアマトウが駆けつけたのは、制圧とほぼ同時だった。


〔上王陛下が矢により受傷……〕〔竜騎手アマトウが即時、治療に当たっており……〕〔デイミオン陛下への連絡は、ベータメイルのレクサ号よりすでに……〕

 血の匂い立ちこめる曇り空に、ライダーたちのせわしない〈呼ばい〉が飛び交っている。


 騎手団長ハダルクの号令下、散り散りに逃げだしていた私兵たちが捕らえられた。上王リアナのほうを気にしながら、数の報告を受けたハダルクは眉根をひそめる。「……5名?」

「団長の目でごらんになったほうが早いでしょう」

 部下が言うまでもなかった。白昼の戦場となってしまった街角を、ライダーたちがあらためてまわっている。その様子を、ようやく騒ぎが終わったとみて出てきた市民たちがこわごわと遠巻きに見ていた。じき野次馬たちが群がってくるだろう。

 雨の残りと泥と血が、あちこちを赤黒く汚していた。立って動いている賊は一人もいない。すべて死体となっていた。


「これを、たった一人でやったというのか……」ハダルクは思わず口もとをおさえた。

 部下は、最後の賊を捕らえたケヴァンをちらりと見てから言った。

「あの〈ハートレス〉も尋常じゃなく強いですが、やはりフィルバート卿はまったく別物の戦闘能力ですね。噂には知っていますし、剣術大会でも拝見しましたが、あんな優雅なものじゃない。まさに戦鬼というにふさわしい」部下も慨嘆した。

「たしかに」

 だがハダルクは、内心に疑問も生じていた。これほどの戦闘能力を持つフィルバート卿に守られていながら、なぜ上王リアナは受傷したのか? 


 別の若いライダーが、報告に駆け寄ってきた。「がわかりました」

 そして挙げられた二つの中級貴族の名に、ハダルクはうなずいた。ほぼ、予想通りのものだ。高価な専門職コーラーを私兵として使える財力があるのは、人身売買組織に協力していたからだったのだろう。長年の捜査のひとつが解決しようとしている。


 ハダルクは、暗号化した〈呼ばい〉を送ることのできる通信手シグナラーを呼んだ。

「王都警備隊のモーガン隊員に連絡を。ネズミが動いた。すぐに隊内の密通者を確保するようにと」

 そして、青い目に憂いをにじませてつけ加えた。「……われわれが探していた密通者は、ザシャ隊員で間違いない」



 ♢♦♢



「ああ、リア」フィルはようやく、かすれた声で呼びかけた。「俺の心臓をやるから」


「しっかりなさい、フィルバート卿! 」アマトウが叱咤しったした。すでに忙しく彼女の傷をあらためている。竜術を使っているために、彼の目は闇の中で輝く鉱物のようなアメジスト色を帯びていた。

「〈竜の心臓〉が動作しているのだから致命傷にはならない。すぐ王城へ運びます」


「〈竜の心臓〉……」

 フィルがくり返したのと、リアナの身体がぴくりと動いたのは、ほぼ同時だった。力なくヒーラーたちに抱えられていた身体に緊張がみなぎり、びくびくと数度けいれんした。かまわず運ぼうとするヒーラーの一人が、思わぬ抵抗で弾き飛ばされた。

「陛下!?……」

 さらに数名が押さえこむようにするので、フィルは思わず手を伸ばした。

(いったい、なにが起きている?)

 彼女自身の血で汚れたフィルの手に、リアナはすばやく顔を近づけた。重傷を負っているとは思えないほどの力で、彼の前腕をつかむ。

 生気を失って落ちくぼんだ灰色の目が、うつろに彼を見あげた。その目に、フィルはかつておぼえた不安がよみがえってくるのを感じた。




「血」

 と、彼女は言った。




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