第33話 ゾーンの中で

 フィルのほうには、誓いを唱える余裕はなかった。

 竜車の扉から飛び出し、マスケット銃を構えた兵士たちに弾丸のように向かっていく。


「〈竜殺しスレイヤー〉だ!」

 その声には、兵士たちが総崩れになりかねないほどの恐怖が含まれていた。声はほかにも、彼のさまざまな二つ名を呟いていた。――〈ウルムノキアの救世主セイヴィア〉、〈ヴァデックの悪魔〉。

「なぜ〈竜殺しスレイヤー〉がここに?」


 すぐに、銃弾の雨が降りそそいだ。

 フィルはすばやく、リアナたちが乗っているものとは別の竜車を盾にして身をかばった。髪一筋の距離を鉛弾がすり抜ける。


「そこにいる!」

「追い詰めたぞ!」


 固い竜車が、見る間にささくれて蜂の巣になっていく。車が倒れ、悲鳴をあげて中から飛び出したどこかの貴族が逃げていく。彼らはすぐに背中から撃ち殺され、血と硝煙の匂いがあたりに無情に立ちこめた。

 銃弾のひとつが運悪く剣の柄に直撃し、フィルの剣は後方に弾き飛ばされてしまった。


 ♢♦♢


「ど……どうなってるの!?」

 リアナは座席のあいだに伏せたまま、息もたえだえに聞いた。「銃声がしたわ。フィルは大丈夫なの?!」

 ケヴァンは無言のまま、小窓から様子を伺っている。もどかしくなった彼女はそろそろと小窓に向かって立ち上がった。

「陛下! まだ伏せていてください!」

 ケブは小さく鋭く言った。

「だけど、フィルの合図が見えなかったら、竜術を発動させられないわ! マスケット銃を術で止めるんじゃないの!?」

「俺が見ます」ケブが淡々と言った。「こんな襲撃、戦時にくらべたら物の数にも入らない。連隊長の戦い方も知ってる。合図を見逃したりしません」

 その言葉は、兵士としての彼のはったりなのかもしれなかったが、おかげで少し平静を取り戻すことができた。

 そうしている間にも矢が車に降りそそぐ。今はまだ持ちこたえているが、銃弾がいずれ車を破壊してしまうだろう。

「陛下は俺の合図に沿って、術を開始―終了―開始と続けてください。ゴーとストップ。いいですね?」

 リアナはうなずき、ケブの合図を待った……。


 ♢♦♢


「〈竜殺しスレイヤー〉の剣が落ちた!」指揮官らしい男が叫んだ。

 周辺の兵士たちは、それを聞いて活気づいた。


 フィルの顔に緊張がみなぎった。


「いくらオンブリア一の剣士でも、蜂の巣にすれば死ぬ! 術用意! 構え!」

 号令をかけた者の場所を、フィルは冷静に確認した。銃が扱える〈鉄の息吹〉のコーラーは、タマリスの高度専門職だ。それをこれだけ揃えられるのだから、傭兵ではない。自軍を持つ領主貴族の兵士たちだろう。足がつくどころではなく、これでは弑逆だ。いったいいいかなる貴族がそんなことを――とフィルは考えかけたが、疑問は別の方向へ向かった。

 『なぜ〈竜殺しスレイヤー〉がここに?』と、兵士の一人が言っていた。だが、フィルバートが上王リアナの護衛としてつくのは、まったく不自然ではない。もしかして雇い主以外、攻撃対象を知らない可能性もあるのか?


「――来たれ息吹!」「来たれ息吹!」

「起きよ炎!」「起きよ炎!」


 詠唱がそこまで進むと、彼らの動きがぴたりと止まった。手はずどおりの動きになっていることがフィルにはわかった。軽く息を吸って、勢いよく飛び出した。


 リアナ側の竜術が間に合わなかったらしい銃弾が数発、彼に向かって放たれた。


 フィルは助走をつけて走り、急ストップをかけて自分の体を空中に放りだした。跳びあがった瞬間に回転が伝わり、銃弾は彼をかすめることもなく音だけを通過させていく。まぎれもなく空だけが見える一瞬ののち、兵士の肩と頭に両足裏を着地させた。衝撃音。乗せた足で銃兵を蹴倒しながら銃を奪い、銃身からストックへと手を滑らせ、タウンハウスの二階に向けて発射。弓兵が倒れるのを目視しつつ銃を捨て、発射の反動で後方へ宙返り、同じ要領で二発撃ち三発撃ち、建物内や屋上にいる弓兵と足もとの銃兵とをほぼ同時になぎ倒していった。最初の攻撃で、どの場所に兵たちが配置されているのかは把握している。構えたタイミングで発射できるのはリアナの竜術のおかげとはいえ、すべての動作が流れるようで、ひとつの無駄も見当たらなかった。


 ♢♦♢


「いいぞ」

 術を開始する合図を出すその合間に、ケヴァンは思わず呟いていた。「やっぱり、連隊長はすごい。同じハートレスとは思えない……」

 そしてリアナは、彼の合図にあわせて術を発動させながら、呆然とそれを聞いていた。

「ケブ、それはフィルが誰かを殺しているということなのよ」

「陛下を狙う者たちです」

 ケヴァンは冷然と言う。「どうせ掴まっても全員死罪だ。ここで死ねば、裁判や刑を下す者たちの手間もはぶける」


「だけど、なのよ」リアナはあえいだ。「それに、あんなに戦争の記憶で苦しめられているのに、そのせいで幸せにもなれないでいるのに、フィルはまた戦争を塗り重ねるの?」 

 銃声はなおも続いていた。しかしそれは、フィルバートによって放たれた銃なのだった。


 ♢♦♢


 戦場の隅々にまで、フィルの意識は行きわたっていた。古竜が自分のテリトリーを知覚する超常の力のように。舞台の上の踊り手ダンサーのように。


 似たような戦闘を何度も繰り返すと、兵士の動きや、それが集団となったときの動きのつらなり、さらにそのひとつひとつが連鎖して変化していく状況、そういったものが手に取るようにわかる瞬間が訪れる。すべてを知覚して、すべてに注意を払い、自分の予測した通りに展開する。極度の集中のため、時間も思念も消え去った場所。それは兵士たちのあいだで「ゾーン」と呼ばれていて、おそろしいほどの全能感と不思議な安らぎをもたらすのだ。


 フィルバートは「ゾーン」の中にいた。

 すべてが自分の思うがまま、意のままに動く。銃を撃ち、ジャンプし、体をひねって矢を避け、また撃ち殺し、顎から脳天を蹴り上げる。顔に血しぶきを感じ、口のなかに死を味わう。一瞬遅れて、若い兵士が自分の眼球が飛びだした場所を押さえるのが見えた。


「――鬼神……」

 呟いた最後の銃兵の目には、まごうことなき恐怖が浮かんでいた。戦場でしか見ることのできない絶望は、フィルに安寧あんねいをもたらす。その頭を銃のストックで殴り飛ばし、噴出する血がびしゃりと頬に飛んだところで、すべてが終わっていた。

 フィルは悠々と、落ちている剣の一本を拾った。軽くてしなる銃兵向けの細剣だった。

 しらせを受けて駆けつけてきた王都警備隊と、飛竜の群が見えた。もう、ほぼこの場は制圧されている。賊たちもそれに気づいていて、残った兵も崩れだすのが目に見えていた。あとは、逃げられないように数名を確保して――


 フィルの恍惚こうこつとした過集中を、小さな物音が破った。


 ぎゅん、という短い矢音に、振り返るまでもなく刀身で矢を落とそうと腕を振った。この時のフィルはまさに神がかっていて、背後で起きることまで完全に把握していたし、剣のひと振りで矢の一本を避けられることがわかっていた。もう一本、確実には避けられない位置の矢が来る。

 だが、その全能の戦場で、わずかな物音がフィルの耳をとらえた。おそらくは知覚のなかにはない異音だったからだろう。矢が肉に刺さる音と、短いうめき声。

 ついで、自分の背中にもたれかかってくる穀物袋のようななにか。いらだち、剣をふるう邪魔になるそれを落とそうと、ふり返りざまに目視して――



「リア」フィルは呆然と彼女を見下ろした。


 似合わないエメラルドグリーンのドレスが、じわりと赤黒く染まりつつあった。

 そして彼女の背には、一本の矢が刺さっていた。心臓を貫くように、深々と。

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