第31話 今のおまえが好きだよ

 黒いジャケット姿の幼なじみに、「奥様」と呼びかけられ、手を引っぱられていく。

 邸内には部屋がたくさんあったが、雨のせいもあり、どこも人の気配にあふれていた。階段の脇を通ったところで、ルーイはケブを追い抜き、逆にその手を引くようにして邸内を進んだ。飴色に磨かれた廊下から、料理女たちが忙しく立ちまわる厨房へ。ぷぅんと食欲をそそる焼き菓子の香りが二人の鼻腔をくすぐる。

 そこが目的地なわけではなく、あっけにとられた使用人たちを横目に、ケブを引きずるようにして裏庭へ続く扉を開けはなった。

 屋敷に食材などを運び入れるための通路だが、この空模様なら誰もいないだろうと思った。ルーイの読みは当たっていた。


 わずかなひさしと、そまつな石の階段が三段ほどついただけの場所である。ケヴァンはあっけにとられた顔で、邸内を見やったが……こほんと空咳をして、当初の目的を思いだしたらしかった。几帳面に石段から降り、次のように口止めをした。


『ルウェリンは今日、王城まで夫を迎えに行き、一緒に帰ってきた』

『夫であるナイル卿が、王都でなにをしていたかは知らない。もちろん、不法な地下オークションへの参加など、妻である自分のあずかり知らぬところだった』


 彼はそれをルーイに復唱させた。彼女はよどみなくすらすらと答えた。ライダーとはいえ、かつては彼らハートレスたちと生活を共にしていたのだ。諜報員としての能力も買われてリアナ付きの侍女になったのだから、それくらい難しいことではなかった。


 復唱が終わると、ケブは了解のうなずきをよこした。

「……では、奥様。俺は邸内なかに戻りますので」

 くるりと背中を見せる幼なじみの、ジャケットの裾をルーイはつかんだ。

「……ルー?」

 その呼び名だけで、ちょっと嬉しい。彼女は問いかけた。「みんなは、元気?」


 仕方なくふり向いたケブは、小さなため息をついた。短髪をくしゃくしゃとかき混ぜるのは、困ったときの癖だと知っている。適当に切りあげたいが、そうできないでいるのだ。

(優しいな)とルーイは少しばかり後ろめたく思った。(優しいから、私みたいな女につかまるんだわ)


「別に……元気だろ。ハートレスおれたちは頑丈だし」

 なにを言っていいのかわからないというふうに、ケブは目をさまよわせた。

「けど、ミヤミが泣いてたぞ。……あの後」

 あの後とは、先日の竜車の出来事だろう。

 

「うん」軒先のきさきのワイン樽によじのぼりながら、言う。

「ミヤミ、フィルさまのことが好きだもんね。それは悪いことしたって思ってる。謝りたいけど、まだ……」

 侍女時代からの親友は、ルーイのほとんど唯一の女友達でもある。でも、べたべたした関係ではない。兵士としての仕事が充実している彼女と、何か月も会わないこともあった。そして、フィルのことがあるから、いまは顔を会わせづらい。

「そうじゃない」

 ケブは彼女に手を貸してのぼらせたのに、そのくせ顔をそむけるように首を振った。

「おまえが連隊長にからだろ。シーズンの何たらとか、両陛下あのひとたちの夫婦問題とかで、振りまわされて」

 思いもかけない言葉に、ルーイは思わずきょとんとした。

「そう……なのかな」

 そういうふうに考えたことはなかったので、自分でもびっくりしてしまう。

 だって、フィルさまに最初に誘いをかけたのは自分で……。


「おまえが自分を安売りしてんのは、おまえが阿呆だからだけど、それにつけこんで自分のために利用してる連隊長だって、男として十分クソだろうが」

 ケヴァンはぴしゃりと言う。それはいかにもハートレスの兵士らしい彼の言い草で、ミヤミも同じことを言いそうで、不思議に思った。

「それは、なんだか、男女差別じゃないの? 私だってフィルさまをもてあそぶくらい、してると思うけど」


「そういう難しいことは俺に言うな」ケヴァンはいまいましそうに言った。

「とりあえず、せっかく見かけたからな。連隊長を、この〈竜殺しスレイヤー〉で八分割しておまえんとこに持ってくるから、待ってろ」



「やめてよ、馬鹿ね、本当に」

 ルーイは自分でもびっくりするほど驚いていた――が、ドレスのポケットに手をつっこみ、厨房からくすねてきた焼き菓子をケブの口に入れた。「あんたがもっと細切れにされるだけなんだから」


 今度はケブがあっけにとられる番だった。意外に大きな黒い目をまばたきさせてから、素直に咀嚼そしゃくする。

「……おまえって、ほんと抜け目がないよな」

 アーモンドののった小さなクッキーを、自分でも口に放りこむと、ケブは目でそれを追った。

「訓練のときも、潜入して働くときも、どっからかこういう菓子をもらってきてただろ? そんで、俺とかミヤミに配ってさ」

 妙にしみじみと、そんなふうに言う。

(馬鹿ねぇ、こんな手管てくだでほだされて)

 そう思うけれど、ルーイ自身もなんだかしょっぱい気分になってしまう。ハートレスたちは文字通り一本の剣のような生き方をしていて、どうにも世話を焼いてしまいたくなるのだ。


「ねえ、ケブ」

 お尻をずらしてワイン樽からひょいと降り、ルーイは男に問いかけた。「……結婚式のとき、どうして私を連れて逃げてくれなかったの?」

 問いを予想していたのではないかと思うほどに、ケヴァンはあっさりと返す。

「別に、ナイル様が無理やりおまえを連れてったわけじゃねぇだろ。このんで、自分から領主の奥方になったんだろうが」

 彼をよろめかせるような言いわけは百もあった。だがそれは口にせず、かわりに首を傾げ、じっと彼を見あげた。昔からいつも、ケブにはそのしぐさが効果があるのだ。


「……そうできなかったのは、おまえも知ってるだろ」

 ふっと目をそらして、そう言う。「俺にはがある」

 嘘つきなフィルバートと違って、ケブの内面はしぐさに出やすい。目をそらすのは、後ろめたいとき。

「『立てた誓いが重いほど、それは困難のなかで生きのびる力を与えてくれる』」

 ルーイは幼なじみのかわりに、彼の信条を呟いた。


「俺の誓いの中身、覚えてるか?」

 そう聞かれて、ルーイは即座に答える。

「『フィルバート様に負けない剣士になって、王様を守ること』。剣の世界で有用性を示すことが、ハートレスたちの希望になるから」


 ケヴァンは返事のかわりに、彼女をぎゅっと抱きしめた。雨に濡れた軍服の、布地の匂いがルーイの鼻にとどいた。残りは、汗と石鹸だけの素朴で安心する匂いだった。

「なぁ。おまえが逃げたいなら……誓いを破ってやろうか?」

 その言葉は、ほかのどんなセリフよりもルーイの胸に刺さった。大好きな幼なじみに、愛のために誓いを破らせる。

 、と信じられそうな気がする。それはあまりにも大きな誘惑だったので、ルーイは強く目を閉じなければならなかった。この体温が、自分の欲しいもののすべてだと思いそうになるほどだった。


「……馬鹿ね。あんたを試しただけよ」

 目がくらみそうなほど温かく甘い体温からのがれ、ルーイは最大限の努力で明るい声を作った。「試してごめん。誓いを破らないで。私のためにも、誰のためにも」

 ルーイの虚勢を知っていたのか、どうだろうか。

 ケブはぽんぽんと彼女の頭を叩いてから、自分の肩口に押しつけるようにして、もう一度腕の力を強めた。

「……この、馬鹿」


 優しいなぁ、好きだなぁ。

 ルーイはそんなふうに思って、ますます自分のことを嫌いになった。彼女はいつでも異分子で、北部の貴族たちのなかにいたときも、いまも、偽物のお姫さまだった。それでいてハートレスたちの中にいると、自分はたった一人のライダーで兵士のなかのお姫さまで、やっぱり一人きりなのだった。

 でも、そんなことをケブに言いたくないなぁ、と思う。

 ハートレスとして生きるのは、かぼそい誓いに頼りたくなるほどに辛いから。

 それでも、強く強く、一本の剣として生きる彼らが好きだから。


「あーあ。リアナさまみたいになったら、なんでも手に入ると思ったのに。お屋敷も、竜車も、ドレスも、きらきらした素敵なものがぜーんぶ」

 ルーイは冗談めかして樽にもたれ、明るく言った。「だけど、不自由で窮屈で、つまんないばっか」


「化粧もケバいしな」

 ケヴァンがまじめな顔のまま、腹立たしい追随をするので、ルーイはばしばしと彼の肩をはたいた。

「なによっ」


「だけど俺は、今のおまえのほうが好きだよ」

 ケヴァンは彼女を見下ろし、ほのかに笑った。

「いろんな奴が、いろんなこと言ってるけど、

「な」

 耳の先まで自分が真っ赤になったのが、ルーイにはわかった。急にそんなことを言うのは、ずるい。


 幼なじみは、彼には本当にめずらしく、一文を長くしゃべった。

「前はそういうの、全部あきらめて人形みたいに笑ってただろ。孤児の俺たちには手に入らないからって。……でも今は違うんだろ。少なくとも欲しいものの半分くらいは手に入ったんだから」

「お金で買えるものをね」

「ひとまずそれでよしとしろよ。ほかのもんは、また手に入るかもしれないんだし」


「そうかな」

 ルーイはしいて笑った。それはやっぱり作り物の笑みだったが、彼女に虚勢を張らせるには十分だった。

「いつかはこの力を――ミヤミもケブも持ってない力を、もっと有効に使えるかも。わからないけど、いつかは、ちゃんと」


「期待しないで待ってるよ」ケブは言った。「そろそろ行くな」


 ルーイはうなずいて、まぶしげに、その背中を見送った。

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