第29話 夫の帰宅と、密談

「ナイルさまが戻ってきた?」

 ルーイはオウム返しに呟いた。「どうして、こんなに早く?」


 昼用のドレスにも着替えていない、部屋着のままの自分の格好を見下ろした。かたわらには愛人関係の男。帰ってきたばかりの夫に、堂々と見せられる状況ではなかった。


「とりあえず、着替えを手伝ってもらったら? ナイル卿がこっちに来るんだろう?」

 フィルが気負いのない声で言った。

(こそこそする必要なんか別にない、堂々と夫を出迎えてやるわ)とルーイは好戦的に考えたが、久しぶりに夫と会う以上、やはりドレスと髪くらいは整えて出迎えるのが筋だろう。

「じゃあ、アン。お願いするわ」

 やってきた侍女に声をかける。「フィルさま、すみませんけど」

「うん、俺は出ておくよ」

 フィルが扉近くに立つ侍従に尋ねた。「それで大丈夫かな?」

 

 侍従はフィルを見あげ、困惑した調子でつづけた。

「それが……あの、旦那様はそのまま自室にお入りになりました。があるので、奥様へのご挨拶はあとでと承っています。ですから、お急ぎになる必要は……」


「なんですって?」それを聞いたルーイが目をつり上げた。

「久しぶりに別邸こっちに戻ってきて、妻の部屋には男がいるのに、どういうことなの!? ですって!?」


 この屋敷のあるじはナイル卿だ。

 当然、妻であるルーイが過ごしていたか、来客のフィルバートについてもすべて、家令から報告が行っているはずだ。

 繁殖期シーズンを複数の相手と過ごす竜族たちも、「誰と」「どこで」過ごすかは配偶者との合意の上で決める。シーズンの務めは貴族にとって遊びではなく、家を残すための義務だからだ。率直に言って、夫の不在中に恋人を屋敷に連れこむのは、竜族の夫婦事情からしてもマナー違反だった。

 妻の愛人が来ていると聞きつけて、顔色を変えて怒鳴りこんでくる――当然、そうなるはずだと予想していた。そうなったらどうしようと恐れてもいたが、だからどうしたと開きなおってもいた。それなのに……。


 フィルがため息をついた。「俺も、挨拶もせず帰るわけにもいかないし、困ったな。……ナイル卿は誰を連れてるんだい?」


「申し訳ありませんが」侍従は声を低めた。「部外の方にはお伝えしないようにと言われております」


「フィルさまはじゃないわ。私の恋人よ!」

 驚くほどの早業で着がえ、髪を結いあげたルーイは、大股に部屋を歩いてフィルの腕をつかんだ。

「絶対に、ナイルさまに挨拶していただくわ」

「ルーイ」フィルが困ったような顔になった。


「行きましょう、フィルさま。ご案内しますわ」


 ♢♦♢


 カールゼンデン家のタウンハウスには、立派な応接間がある。主人であるナイルも普段の来客はそこで迎える。それを、今日の客とは、一緒に帰ってきて、さらに自室へ招いているというのだ。

 これは、普通のことではない。ルーイは警戒を強めた。


 誰が来ているのかは、すぐに明らかになった。

 扉の前に、〈ハートレス〉の兵士、ケヴァンが立っていた。黒地に金の肩章がついたショートジャケット姿で、明らかに勤務中だった。すっと手を出して、二人がそれ以上進もうとするのをさえぎる。

「どうして……」

 ルーイは幼なじみの姿に、一瞬、怒りを忘れた。黒髪黒目、兵士としてはやや小柄だが、それでもルーイに対しては見下ろす高さになる。一年に一度という限られた期間ではあるが、〈竜の心臓〉を預ける相手でもあった。彼女にとっては他人ではない。


「ここを通してよ、ケブ」

 そう呼びかけるが、ケヴァンは表情を動かさずに答える。

「どなたも入室いただかないように、と言われています」

「私はナイルさまの妻なのよ!」

「奥様もふくめて、です」


「ケヴァン」ルーイの怒りを無視して、フィルが声をかけた。「おまえがここにいるということは、ナイル卿と話しているのは、リアナ陛下か」


「……」ケヴァンは無言の肯定を返した。

「ナイルさまと、リアナさまが!?」

 ルーイは扉をきっとにらみつけた。「二人でなにを話しているっていうの!?」


 分厚い杉材の扉が、彼女を拒否するようにそびえて見える。当然、室内でなにが話しあわれているのかは知るよしもなかった。

 近づこうとすると、腕をつかまれる。

「お通しできません、奥様」

 その他人行儀な口調に、ルーイは思わずかっとなって、拳で扉を殴りつけた。

「どうしてなの!? 私が何をしてるか、知らないわけじゃないんでしょう!?」


「ルー。ちょっと落ち着こう」

 フィルバートが肩に手を置くが、ルーイの怒りは収まらない。

「妻の不貞は、そんなにどうでもいいことなの!?」


「どうした、ケブ? 騒がしいね」

 扉が内側から開き、青年の穏やかな声が降ってきた。フィルバートと同じくらいの長身だが、剣士の彼と比べると細身で胸も薄く、やや女性的な印象を受ける。


「ナイルさま――」詰め寄ろうとする妻を、ナイルは優しくとどめた。

「ルウェリン。今は大切な話をしているんだ。きみの話はあとで聞くよ」


 ナイル・カールゼンデンは周囲をすばやく見まわした。スミレ色の鋭い目をフィルバートに向けたが、それが妻の愛人に向ける目線なのかどうか、ルーイには確信が持てない。久しぶりに会う妻への、一言の挨拶すらないのだ。なにか違うことに注意を取られている気がしてならない。


 たとえば、室内にいるに。


「誰かそこにいるの?」その場を静まりかえらせるような女性の声が響いた。

「リアナ陛下さま」と、ナイルが室内をふり返る。ルーイたちからは姿は見えない。

「妻と、フィルバート卿が扉の前に」

 手短な報告に、女性も短く返す。「フィルはそのままでいいわ」

「はい」

「ルウェリン卿には口止めを。ナイル……は、まだこっちの話が終わっていないわね。ケヴァン、お願い」

「俺は動けません。陛下の警護がありますので」黒髪の兵士が、かたくなな調子で言う。

 フィルバートが一歩進み出た。

「俺が陛下の警護をする。それでいいな?」

 ケヴァンは明らかに不服そうだったが、結局、リアナの指示に従うことにしたようだった。


「では、ルウェリン卿。俺と一緒に来ていただけますか?」

「私は――」

 ケヴァンに腕を取られたルーイは、「行きたくない」と言おうとした。タマリスに戻ってきたのに、自分に会うよりも優先される用事が気になったのだ。

 だが、ナイルはそうさせるつもりはないようだった。

「犯罪にかかわる危ない話だから、君に聞かせたくないんだよ、ルー」やんわりと、しかし有無を言わせぬ調子で夫が言った。「いい子だから、ケヴァンと待っておいで」


 柔和な仮面の下にある、冷徹な政治家としての夫の顔を知っているルーイは、黙って引き下がるしかなかった。

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