6 王になれない男、王妃になれない女 【ルウェリン②】

第28話 絶対に別れてあげない

 オンブリアの春は、雨の季節でもある。


 ちょうど繁殖期シーズンの最初の宴が終わるとしずしずと降りはじめ、若い男女が恋に夢中になるころ、花散らしの雨となる。


 ルウェリンは、窓にしたたり落ちる雨をぼんやりと眺めていた。高価なガラス窓でも外の風景が鮮明に見えるというほどではなく、雨が筋になってななめに落ちていくのがかろうじてわかる程度だった。

 かつてルーイと呼ばれていた少女は、雨が好きだった。あくまでも雪に比べて、という一文がつくが。

 雪は、寒くてひもじかった子ども時代のことを思いだす。手があかぎれになって、子ども向けの仕事は全然なくて、なにか食べ物を分けてもらえないかと家の裏戸をたたいても、誰もあけてくれない。ノーザンの貴族に拾われて、身代わりの仕事を得るまでは、ずっとそうだった……


 雨には、それほど嫌な思い出はない。


 雨の日でも夜会はもちろんあるのだけれど、今夜はフィルバートの都合がつかないということで、予定が流れてしまった。

 そのくせ彼は、別の予定の合間にちょっと立ち寄るとことづけていて、それがルーイになにかしら不安を呼びさました。



 ずいぶん長いあいだ考え事をしていたらしい。ノックの音がして、フィルバートが入ってきた。今日は出かけないので、自室のほうに通したのだった。

 外套コートは脱いでいて、長衣ルクヴァではなく普通の街着を着ていた。


 抱きつくと、男は雨のにおいがした。軽く抱きしめてから、それ以上の親密な行為に移らないうちに「そうだ」と身体を離す。


「タマリスの店で見かけて、ルーイが好きかなと思って買ってきたんだ」

 ふところから出したのは、彼の手のひらに収まるくらいのきれいな箱だった。


 受けとったルーイは、白い指でそっと蓋をあげた。

「きれい。飾りピンですね」


 ピンも、それをしまう箱も、柔らかく虹色に輝く螺鈿細工になっていた。さまざまな珍しい貝を模した飾りがついていて、これからの夏にはぴったりの装飾品になるだろう。大きいものには真珠があしらわれ、小さいものと重ねづけするのもよさそうだ。ヘアアレンジが好きなルーイにぴったりの贈りもの。

 彼女が喜ぶもの。とても美しく、高価すぎず、夫の目につくこともないもの。


「地味な服装に、装飾品の贈り物。意外にわかりやすいことなさるんですね、フィルバートさま」

 ルーイはピンから顔を上げて男を見た。「別れ話でしょう?」


 フィルは苦笑した。

「ルーイにはかなわないな」

 そんなふうに優しく言う。「あと2、3日もすればナイル卿がこっちに来るだろう? そうしたら俺も、お役御免かなと思って……このピンは、思い出に取っておいてくれると嬉しい」


 嘘つき。ルーイは声に出さずに呟いた。思い出なんか、ひとつもない。二人のあいだにあるのは、毎晩続く軽薄な夜会と、その合間の短い逢瀬だけだった。


「これで終わり?」ルーイはふわふわした金髪を指でいじった。

「こんなふうに髪を巻いて、リアナ様そっくりに化粧するのも?」


 フィルバートはあいまいな笑みを浮かべた。

「ルーイには、どっちの髪形も化粧も似合うよ」

「だけど、似せていたほうが喜んだわ。『かわいい』って、『好きだよ』って、あなたがベッドでなにを言ってくれたのか、リアナ様に全部しゃべってしまってもいいのよ」


「それでルーの気が済むなら、俺は別にかまわないよ」彼女の手からそっと箱を取りあげ、フィルは鏡台の上にそれを置いた。

 二人とも、リアナのことをよく知っていて、だから何も起こらないこともよくわかっていた。

 リアナはたぶん、フィルバートを叱責するだろう。あるいは、この間の雨の日のように、ルーイに嫌味のひとつも言うかもしれない。

 でも、それだけだ。

 フィルバートが本当に欲しい反応は返ってこない。激しい嫉妬や独占欲を示してくれることはない。ナイルと一緒だ。領主家の二人は、本当にきょうだいのように似ている。スミレ色の目も、為政者としての責任感も。


「……雨、止まないな」窓に目を向けて、フィルがぽつりと言った。来たばかりなのに、もう帰ることを考えているように見えて腹立たしかった。

 その横顔に、初めて会ったばかりの頃の面影がよみがえってくる。


 ……雪の中をやってきた青年は、すでに名の知れた剣士だった。〈ハートレス〉のなかに希望者がいれば、軍に入らないかとリクルートにやってきたのだった。その冬、彼はノーザンから二人の子どもを引き取った。寡黙で負けん気の強い〈ハートレス〉の少年ケヴァンと、ライダーの身代わりをさせられていた少女ルーイとを。軍は過酷だったけれど、ハートレスたちは優しく、はじめて女の子の親友もできた。そこはルーイの初めての家だった。……


「偽物をつかまされたのは、あなたにはそれがふさわしいからよ」

 ルーイは、男をきっとにらみ、鋭く言った。

「愛してるのに打ち明けないのは、家族っていう特権を捨てたくないから。あいまいな顔で優しくして、隙があれば割り込もうと思っているのよ。リアナ様が手に入らなかったのは、あなたの自業自得だわ」


「……耳が痛いな」

 フィルバートはわずかに顔をしかめた。柔和な顔をしていると普通の青年なのに、表情を崩したときのほうがハンサムで貴公子めいて見える。

 いくらかは彼を傷つけられたと知って、ルーイは奇妙な満足感を覚えた。

 ――わかるわ。だって私と同じだもの。


「私だって、本当は……」

 言いかけて、唇をかむ。


「本当は、なに?」

 フィルがすかさず尋ねた。「ルーはどうしたい?」


 そうやって距離をつめて、肩に手を置いたりするのが、ルーイは腹立たしかった。

「絶対にいや」

 手を振りはらって、叫ぶように言う。「絶対に、絶対に、別れてなんかあげない」


 ルーイの声と、再びのノックが重なった。おそるおそる、といったふうな控えめな音に続いて、侍従の顔がのぞく。

「奥様……フィルバート卿。お話し中、申し訳ありません」


「かまわないよ。どうした?」フィルがうながす。


「あの……旦那様が」侍従は、熊を目にしたように怯えながら言った。「ジェンナイル卿がお戻りです。たった今」

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