第27話 夕暮れのアルファメイル

 目を覚ますと、寝台に夫の姿はなかった。服もととのえてあり、女官が入ったのだろう。勤務時間に多大な迷惑をこうむったであろう事務官たちも姿を消していた。


 人目(耳?)のあるところで、あんな痴態を……。

 思わず枕に顔をうずめるほど恥ずかしかったが、デイミオンからすれば、あれくらいどうということもないのだろう。


 ハダルクが気の毒そうな顔でやってきて、「リアナ陛下の今日のご公務は、こちらでいくらか調整させていただきました」と言ってくれた。竜騎手団長として忙しい身の上だが、上司のデイミオンの後処理なのだろう。

「どうもありがとう、ハダルク卿」

 素直に礼を言って、今日の公務について思いを馳せる。

「そうだわ。秘書官に、今日はここで執務すると言ってくれる? 書記官用の机もまだ残してあるし」


 ハダルクはにっこりした。「よいお考えですね。カーテン越しなら、お化粧もきついドレスもなしですみますよ」

「ふふ、そうでしょう。デイミオンの真似よ」

「デイミオン陛下はまったく褒められた所業ではありませんが、リアナさまのご休養につながるなら、怪我の功名としておきましょう」


 ふかふかに重ねた枕に半身を起こし、リラックスして執務するのは良い体験だった。知らないあいだに気を張って疲れていたのかもしれない。フィルの言うように、もっと栄養を取るべきなのかも。


 王太子としてこの城にやってきてから、もう十年がたつ。

 公務の分量にはときどきで差があるが、リアナはなるべく日々の執務を変えないようにしていた。

 デイミオンも自分も、城内の命令系統のトップにある。だから、急に予定を変えると下の者が迷惑すると知っているので、思いつきで日課を変えられないのだ。

(でも、たまにはいいわ)


 ずいぶん減らしてもらったらしい仕事が終わると、リアナはふと思いたって、今日は正餐は必要ないと調理場に伝達した。その代わり、軽食を用意してもらうように頼む。こういう変更も現場の負担になるので、普段はやらないよう心がけているのだが……、今日はいいということにしておこう。

 デイミオンにも、ハダルクから伝言を頼んだ。


♢♦♢


 夕刻。日勤の竜医師たちが交代をはじめ、申し送りを終えると挨拶をして退去していく。リアナは笑顔でそれを見送った。

 人気が少なくなりつつある竜舎である。


 柱の近くにクッションとひざ掛けを持ち込み、高くひらけた窓からバラ色の強い光が落ちてくるのを見ていた。ときおり、ドーンが跳ねるようにやってきては、パンの包み紙や自分の影を追いかけて遊んでいたが、最後には母親のいる洞穴ケーブのほうへ戻っていった。黒い影が長く伸びて、しだいに遠くなっていく。


 夕暮れの、黄金色の竜舎のなかに、デイミオンが入ってきた。彼の黒と夕陽の黄金の取り合わせは、とりわけ美しく見えた。

 手に夕食の入った籠を下げている。頼んだとおり、厨房に寄ってきてくれたらしい。


「竜舎で夕食か。気楽でいいな」

「ファニーもさっきまでいたわ。お菓子を食べて、ゴールディをドーンと遊ばせていたの。また明日も来るって」


「そうか」

 夫はすぐには座らず、籠を置くとランタンを探してきて、背後の柱に下げた。弾くように軽く指を動かすと、「ぼっ」と音がして灯がともり、オレンジの光を投げ放った。

「後でもいいのに」

「いったん座ると、動くのが面倒になるだろう」

「ふふ」

 それはいかにもデイミオンらしいセリフで、リアナの口端が上がった。同時並行でいくつも仕事をこなす多忙な王だが、休憩と決めたらでも動きたくないらしい。

 長衣ルクヴァのボタンを二つ三つはずしてくつろげてから、どっかりと腰を下ろして籠のなかをあさり、パンやワインなどを取り出した。

「はあ、疲れた」

 デイミオンはそう呟くと、素焼きのワイン壺から直接、喉へ流しこんだ。太い首と、喉ぼとけが動くのが面白くて、リアナはつい目で追ってしまう。


 二人はしばらく、無言で食事をすすめた。

 王宮ではめったに出ない、庶民的なパンが入っていた。炒めたひき肉や野菜を挟んだ生地に、チーズと卵を上に乗せて焼いたものだ。ひとつで一食がまかなえるので、忙しい労働者に人気がある。ほかには、おなじみのクルミと香菜、茄子が入った小籠包など。

 人間の国と違い、竜の国オンブリアはそれほど宮廷料理が発達していない。だから、軽食とはいえこの素朴な食事はふだんの夕食とそれほどかけ離れてはいなかった。


 デイミオンは、出会った時からそうだったが、正餐のとき以外はさっさと食べ終えてしまうことが多い。だが最近は、リアナが食べ終わるまではおとなしく席についてワインをちびちび飲んだり、デザートをつまんだりしている。食事マナーが向上したというよりは、妻がしっかり食べているか見張っているような感じだった。


 ブドウで風味をつけた、クルミ入りの練り菓子をかじりながら、リアナは切りだした。

「フィルのこと、まだ許したわけじゃないわよ」


 デイミオンはすぐには答えず、ワインをすすっている。


「あなたが不在の間、フィルをわたしのシーズンの相手にあてがうなんて、どうかしてるわ。それはわかってる?」

 リアナは夫の腕に触れた。

「『わたしのため』って持ち出されたらフィルが断れないの、知ってて利用してるんでしょう?」


「そうだ。おまえを連れて、タマリスを脱出するよう頼んだときと同じだ」

 言いながら、デイミオンの眼光が鋭くなった。

「あいつは国も竜祖も信じていない。どんな誓いももう立てないと言っていた。おまえを守る以外の誓いは」


「わたしを連れて、タマリスを脱出するとき……」

 リアナはくり返した。アエンナガルでイオという名の半死者を倒したとき、彼女は瀕死の重傷を負い、彼らと同じ半死者デーグルモールとなりつつあった。ここ王城に戻ったリアナは半死者として軟禁され、重傷を負ったデイミオンの助けも見込めず、デーグルモールを憎むエサル公によって殺されようとしていたのだった。

 それを助けだしたのはフィルバートだった。


『――剣士としての栄誉を。〈ハートレス〉としての矜持を。同胞と家族の信頼を。祖国を、竜祖を。すべて裏切って、誰からも失望され、異国で朽ちてもかまわない。……だから、彼女を守らせてくれ。必ず守り抜くから』


 そう、デイミオンに嘆願したのだという。


「そして、やり遂げた。あいつ以外の男には任せられなかったし、不可能だっただろう」

 夕暮れの竜舎に、アーダルの姿が黒々と影の山を築いていた。まるでデイミオン自身の影のように見えた。


「俺はそういう風には生きられない」

 デイミオンは彼女を腕に囲い、濃紺の目を向けて言った。


「俺はアーダルや、ほかのすべての古竜を庇護する者でありたい。竜王は竜族の王であるだけじゃなく、竜たちの王アルファメイルでもあるんだ。俺はそう思っている」

「うん」

「だが、おまえを失えば、国も竜もなにひとつ意味はなくなる。俺の人生はもう、おまえの人生とり合わさっているからだ」

「わかってる」

 デイミオンの言葉は熱い湯のように心地よく、リアナは目を閉じてその言葉のすべてを肯定してしまいたいと思った。そうするのはたやすいことに思えた。フィルバート・スターバウさえいなければ。

 ただの一度も彼女を愛していると言ったことはないのに、フィルは彼女のためにデイミオンと激しく言い争っていた。彼女は子どもを産むための道具ではないと。『彼女が自分を犠牲にしなければいけないくらいなら、五公十家なんて滅びてしまえばいい』と言っていた。

 そんなことを口にするのは、フィルバートだけだろう。…… 


「アーダルの治療を進めて」

 夫の腕の中から、リアナは言った。「あなたのいない一年を待つわ。ただし、フィルと過ごすかはわからない」


「……わかった」


 茜色の夕暮れを夜の毛布がゆっくりと覆い、掬星きくせい城の名の通り手が伸ばせそうなほど近くに星が見えても、二人はまだそこに寄り添って座っていた。

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