第25話 カーテンの陰で

 きゃしゃな顎を持ちあげる手が、右に、左にとゆっくり動かされる。デイミオンはフィルの痕跡を探すように念入りに首を確認すると、強く吸いあげて赤い跡をのこした。吸われる一瞬の、捕食されるような感触に耐えられず、リアナは小さくあえいだ。


 胡桃クルミ材の寝台は快適で広く、薄暗く、ふかふかの寝具や飾り枕が敷きつめられている。その周りを囲うように、分厚いベッドカーテンが引かれていた。出入口から近い一辺は半分ほど開かれているが、しげしげとのぞき込まない限りは、中で誰がなにをしているかは見えないだろう。 


 あの誘拐事件のオークション会場や、竜車でのようなお遊びは、あの場だけのものだ。時間は夜、場所は人目につかない竜車、潜入捜査から解放されたばかり。そんな状況だったから成立しただけで、普段の彼の姿というわけではないと思っていた。

 リアナの知る夫は仕事と私生活を分けておきたいタイプで、即位してからも既定の時間中は長衣ルクヴァをきっちり着こんで執務机についている、というのがお決まりだった。だから、自分の首筋を甘く噛んでいる今のデイミオンには困惑してしまう。寝台にカーテンがついているのは、部屋から仕切るためで、つまり他人が入ってくることもあるスペースということを意味している。


 最初に秘書官と予定を打ち合わせると、文官たちがやってきて次々に報告を上げた。書記官も入っており、寝室ではなくふつうの執務室というていを崩さなかった。

「イーサー大公との会談でご使用になる草稿が、上がってきました」

 文官は簡単に内容を説明し、デイミオンもまた簡単な応答を返した。

「1、2、4の項目はこれで行こう。矮竜の共同研究については、漏れがないかもう一度大学のほうに精読させてくれ。軍事転用の危険性を最小限にしたい」

「御意」

 さすがに熟練の文官だけあって、カーテンの陰で王が何をしているのか、具体的にはどんないかがわしいことをしているのか、という疑念を態度に含ませることはなかった。

 たとえ副官のハダルクが面と向かって苦言しようと、デイミオンの行動を変えることはできないのではあるが……。


「驚いたわ……」

 文官が立ち去ると、リアナはさっきの興奮でいくらかかすれた声で言った。

「シーッ、声は小さく」わざとらしく、唇が指でおさえられた。


 一瞬、腹立たしさよりも好奇心のほうが勝ってしまい、つい尋ねる。「草稿の直しは何回目?」

「8回目だな、たしか」

「こんなに細かく詰めているなんて。……あなたが眠る間もないほど忙しい理由がわかった気がする」

 リアナが王であった時代、こういった書類仕事の一部は王太子であるデイミオンが肩代わりしてくれていた。今では逆の立場となり、彼女が補助的な役割を担うことがあるが、多くは外遊や謁見のような外向きの仕事が多い。

「顔が赤くなっているぞ。妻に惚れ直されるのはいい気分だな」

「馬鹿なことを言って……。もっと負担を回してくれればいいのに」

「おまえの夫は有能なんだ、心配するな」

 憎たらしくなるほどに整った顔で言い、デイミオンは彼女を抱えこんでキスをした。指の腹が、楽しむように彼女の上腕をさすっている。唇はまだ果汁で濡れていて、キスはブドウの味がした。


「……っは、デイミオン」

 リアナは非難がましい声を出した。カーテンで仕切られているとはいえ、室内には書記官も秘書官もいる。そんな中で、自分はしっかりと長衣ルクヴァを着て仕事をしているのに、リアナは夜着のまま、おもちゃ同然とはいえ手錠をつけられ、仕事もままならない状態でいたずらされているのだ。恥ずかしいというより、むしろ不公平ではないか。


 デイミオンはそしらぬ顔で、薄い夜着の上から背骨をなぞるように触れた。顔と肩が夫の胸に押しつけられる体勢になる。長衣ルクヴァ毛織ウールで厚い生地だから、薄着の肌に触れてちくちくした。


 その間にも別の文官がやってきて、エンガス卿からの手紙を読み上げた。聞き終えると、デイミオンは代筆を命じた。

「『キーザイン鉱山の鉱業権の更新については、条件付きでこれを認める』」

 彼女の首筋を鼻先でこすりながら、そんなふうに言う。はっきりした低い声が自分の鎖骨に落ちるのがリアナには感じ取れた。手のひらはまだ背中を撫で続けている。じれったくなるほど優しく、ゆっくりと。

「『昨年度の収入を鑑み、国庫へ納入する税は現状より5%増やす。その代わり、試掘の費用については、国庫からの助成金を増やしておぎなうこととする』」

 そんな事務的なことを口にしながら、デイミオンの唇はさらに下へ降りていった。書記官の鵞ペンの、かりかりとひっかくような音が耳に届く。乳房の内側をたどるように舐めたあとで、また強く吸われて、リアナは思わず黒い頭を手で挟んだ。手の動きにあわせて鎖が金属音を立て、鵞ペンの音がびくっと途切れた。


「……は……ぁ、デイ」思わず、ため息とともに声が出た。男は、耳もとまで顔を近づけ「シーッ。聞かれたくないだろう?」と笑う。

 絶対に、完全に、聞こえているはずだと思う。書記官たちのほうがリアナよりもさらにいたたまれないはずだ。こんな非常識な黒竜の王を戴くばかりに、かわいそうに。


「写し終えました。サインはまた後ほど――」

「ここでいい。ペンを渡せ。紙を固定して――そうだ」

 寝台の脇に文官が近づき、命令どおりにペンを渡した。書記官があわてて、自分の書見台を抱えてやってくる。本を立てて参照できるように、背がななめになっている台に紙が置かれた。

 デイミオンは彼女の腰を抱いたまま、書見台のある右手側へ身体をずらした。必然的にリアナは、ベッドボードの中央部に固定された鎖にひっぱられて「きゃあ」と悲鳴をあげた。

 カシャンッ、と小さな音がして、書記官が「インク壺が!」と慌てている声が聞こえた。


「す、すみません、デイミオン陛下。それから、あの、リアナ陛下」

 おどおどした書記官と、割れたインク壺、流れだすインクがカーテン越しにも目に浮かぶようだった。

 謝られるとよけいにいたたまれないが、デイミオンは「妻はここにはいない」と堂々と嘘を言いきった。本当に嘘が下手というか、相手がそれを信じるかどうかはどうでもいいのだろう。世界中のなにもかもが自分の思うとおりになると疑っていない男なのだ。


 右手だけを書見台に出してサインを終えると、今度は腰のあたりを愛撫しだした。その右手でふくらはぎをさすり、手指をリアナの足指にからめて優しく揉む。左手と顔は尻のあたりにあって、こちらもいたずらな動きをはじめている。

 冷えていた手足が温まってくると、夫の愛撫が心地よく感じられてきた。同時に、だいたいいつもこうやって流されるんだわ、と悔しく思う。にらみつけると自分の胸の、バラ色に鬱血した箇所も目に入ってしまい、耳が熱くなった。胸がこれなら、首はもっとはっきりと跡がついているだろう。


「これじゃ服が着られないわ。謁見はどうするの」

 小さく、だが恨みがましく言うと、デイミオンは身体をずらして後ろから抱くような姿勢に変え、なだめるように耳にキスしはじめた。「そう怒るな、あの灰青色のドレスにしたらいいだろう? あれなら首まで隠れるし」

「あれは冬のドレスなの! この時期には着られないのよ、本当に服飾にうとい男ね」

「俺にこうされるのが嫌なのか? フィルにはキスさせておいて」

 まだそれを……。あきれかえって振りむくと、不安そうに陰る青い目とかち合った。


 この兄弟は、本当に、とまた思った。不安を愛情でまぎらしたいのか、単に不安で人肌恋しいのか、こうやってすがるような目で抱きつかれると無理にはほどけない。

(あんなに正反対なのに、どうしてこういうところだけそっくりなの!?)

 デイもフィルも、お互いに見当違いな嫉妬をして不安がっている。リアナの目には、二人が無意味にたきつけあっているようにしか見えなかった。


(アーダルのことさえなければ、この先もずっと夫婦一緒で、フィルにやきもちを焼く必要もないのに。フィルのシーズンのことは自分から言いだしたんだから、自業自得だわ。フィルだってあんなに苦しんで……)

 でも――。


 竜医師の一人が、アーダルの容態を報告に来た。これは定例のことだったが、アーダルの体温や脈の回数などをデイミオンが完全に把握していることには、やはり驚かされた。

 国や竜族の未来と、相棒のアーダルと、妻のリアナ。デイミオンの愛情はそれぞれに区分されていて、その時々で優先順位は変わるが、どれもおろそかにはしていない。そういうデイミオンだから、これほど好きになったのだ。


(どうしたらいいの)

 結局、この問題がなにひとつ解決していないことに立ち戻ってしまう。

(どうしたら、アーダルの、をあきらめてくれるの……デイ、わたしを置いていかないで)


 心細くなって、人目(耳?)もはばからずすがりつくと、デイミオンは気を良くしたのか、またキスをした。今度はもっと激しく……舌と舌をからませ、歯列の裏まで探られる。この先に続く手順はだいたいわかっていたから、リアナはびくりと身体を震わせた。まさかと思っているうちに、かさついた大きな手が太ももの間を割って入ってくる。

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