第24話 夢と嫉妬


 フィルバートの夢を見ていた。昔の思い出が、切れぎれによみがえってくる。


 はじめて飛竜に乗ったときのこと。「俺が怖くないですか?」と聞いたあのときから、フィルは自分で自分を恐れながら、そのうえで信じてほしいと言い続けているような気がする。任務のためには平気で嘘をつき、自分や周囲の気持ちを傷つけることをいとわない。だからこそ、誰かに信じてほしいと思うのだろうか。


 それから、王との〈呼ばい〉のことを初めて知った、あのケイエの領主館の夜あたりだろうか。襲撃で里を失ったことばかりで、〈呼ばい〉や王位にまつわる話を聞かされた衝撃で、館から逃げだそうとしたときだ。

 ロッタの焼いた最後のパンを握って、涙をこらえていると、彼が探しに来たのだった。

「本当に王にはなりたくないと思うなら、あなたを連れて逃げてもいいと俺は思ってる。それは覚えておいてほしいんだ」

 あのときはまだ、デイミオンも竜騎手たちも、よそよそしく冷たかった。だから、彼がそう言ってくれたのに驚いたっけ。フィルだけが、最初からリアナの味方だった。そして、そのときからずっと、彼女ひとりの剣士だ。

 周囲を裏切って国を出奔したように見えたときでさえ、彼女のために危険な内偵を行っていた。死を覚悟するほどの雪山を、彼女を背負って越えたこともある。デーグルモールになりかかったリアナに、自分の血をすすらせながら。


 それほどの忠義と献身がありながら、フィルバートはその動機がリアナへの愛だと口にしたことはなかった。


 どうして今になって、愛の告白めいたことをするのだろう。この十年、フィルはずっと彼女とつかず離れずの距離を保ってきた。アエディクラとの旅程をのぞいては、二人きりになることさえほとんどなかった。


 そう、あの旅。

 繁殖期シーズンを迎えるためにオンブリアに戻る旅だけは、いつもフィルが一緒だった。竜を使っての移動だから、ほんの一日か二日のことだけれど、少女時代に戻ったようで楽しかったのだ。

 旧イティージエンの遺跡を歩いたり、キャラバンの中継都市に立ち寄ったり。燃えあがるような夕焼けのなか、一面のアザミの野原を見たことは忘れられない。それは二人だけの思い出だった。


(フィル、どうしてなの? ……)

 夢うつつに考える。もしも、打ち明けなかった理由がリアナのためなら、今になって打ち明けようとしているのも、同じ理由なのではないだろうか。

(もしそうなら、それは良くない気がする……)


 郷愁をかき立てられるアザミの香り。夕焼けと逆光のせいで、青年の姿がくっきりと浮かびあがっていた。胸が痛くなるほど優しい彼の笑顔が、まぶたの裏にまだ、残っている。


 ♢♦♢


 目を覚ますと、まだ夜明け前の暗さだった。


 昨夜は疲れていて、すぐに寝入ってしまった気がする。夫のぬくもりを探して体を動かすが、寝返りを打っても寝台の中は冷たかった。

「……?……デイ?」


 まさか、徹夜で仕事をしていたのだろうか。それにしても暗い、と思い、それがベッドカーテンが引かれているせいだと気づく。寝台のまわりを囲うようになっているのだ。最近あまり使っていなかったので、存在を忘れていた。

「もう朝なの? ……いないの? デイミオン」

 しかたなく起きあがろうとすると、じゃらっという聞き覚えのある音がした。手を挙げると、きらきらと無意味に配置された宝石、金細工の鎖が目に入る。

「手錠?」


「起きたか」

 厚いカーテンが開いて、夫の顔がのぞいた。本人はいつ眠ったのかわからないが、少なくとも風呂には入ったらしい。黒髪は水けを吸ってしっとりと重たげで、上半身はまだ裸だった。

「デイ。またこの手錠なの? 遊んでないで、外してよ。朝なら、もう着替えなきゃ」

 言いながら、カーテンの開いた部分から漏れる光から、間違いなく朝だと確信していた。まだ弱々しい朝の光といつもの夜着に、仰々しい手錠がどうにも場違いに見える。


「いいや」デイミオンは物憂ものうげに言った。「今日はこのままだ」

 そして、トレイに載った食事を寝台の上に置いた。朝食ということらしい。

 リアナはあきれて嘆息した。

「ねえ、デイ、お遊びなら夜にまたつきあってあげるから。今日もこれから謁見でしょ? わたしも予定があるし」


「そうだな。俺は謁見がある」ドレスシャツに腕を通しながら、デイミオンが言った。「だが上王陛下は、調で今日は公務に出られない。おまえの秘書官にはもう伝達した」


「ちょっと……どうしてそんなことしたの?」リアナは抗議した。「わたしの予定を勝手に決めないでよ」


 だが、デイミオンはボタンを留めおわると不穏な声で切りだした。

「ところで、俺の弟にキスさせていた件だが」

「……」

 〈呼ばい〉があるので、ナイメリオンが目撃したこと(と、その衝撃)が夫に伝わっていることは想定していた。まだ言及されていないということは、なにか企んでいるのだろうとも思っていた。どうせ、ベッドの中でしつこく責めたてられるくらいのことだと思っていたのに。

「俺は寛大な夫だから、あれくらいの小芝居をしつこく責めたてたりはしない」

 リアナの内心を読んだかのように、デイミオンは言った。そして寝台の上に片膝をつき、体重を乗せてぐっと踏み込んだ。


「だがな、リア、覚えているか?」彼女の顎がぐっと掴まれた。「おまえは昨日の夜、フィルバートの夢を見ていたんだ」

 あまりに確信に満ちた口調なので、おそらく寝言でも聞いたのだろうと思われた。


(キスじゃなくて、そっち!?)

 この兄弟は、本当に……。嫉妬したり、それを表現する方法が分かりづらすぎる。顎を持ちあげられたまま、リアナは不敵に言いかえす。

「夢に誰が出てくるのかなんて、わたしの管轄じゃないでしょ?」

「おまえの管轄じゃなかったら誰のだというんだ、俺か?」自分で問いかけて、しらじらしく自分で答えた。

「俺かもしれないな。おまえの睡眠と夢に、夫としてもっと責任を持つべきだ」


「デイ、あなた最近、本当にどうかしてるわよ」

「そうだな」

 デイミオンはなんでもないように首肯し、顎をつかんでいた手を離した。トレイの上からブドウを取り、房をつかんで無造作に口でちぎり取る。白い歯で噛まれた緑のブドウから新鮮な香気がはじけ、リアナの鼻腔にとどいた。

「……昔の俺のほうが好きか?」


 思ってもいなかった問いに、リアナはすぐに答えを返せなかった。口を開きかけたところで、扉がノックされた。

「入れ」

 夫の秘書官は、とまどったように寝台の脇で直立している。カーテンにさえぎられて姿は見えないだろうが、踵の高いきゃしゃな室内履きを見れば、リアナがそこにいることは一目瞭然だろう。 


「昨晩は飲み過ぎた。腹も痛いし、午前はここで執務する」

 秘書官を前に、デイミオンは臆面もなく、そう宣言した。樽ごと飲もうが酔わず、古竜のように頑健で、腹のひとつも下したことはないくせに。「嘘つき」カーテンの陰で、リアナはこっそりと毒づいた。

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