第15話 天空の城に黒竜は眠る

 目の前に開けた光景に、ファニーは一瞬、言葉を忘れて立ちつくした。


「これが竜舎? まるで雲に浮かぶ野原みたいだ」

 背後の扉以外、目の前はほぼすべて空。雲が手でつかめるのではと錯覚するほどだ。そしてかつて諸侯とその竜たちが降り立ったとされる広間は、見事な屋上庭園へと変貌を遂げていた。緑のカーペットのなかに、紫や黄色の小さな花が点描のように広がっている。

 時間が経つのも忘れそうな絶景を、ファニーは心おどらせながら進んでいった。


 向かって右手に見える岩窟ケーブが竜舎に違いない。入っていくと、高い位置の明り取りから陽光が差しこむ開放的な造りになっていた。

 奥に進んでもやはり明るく、驚くほど広かった。そして複数人の気配がする。竜医師らしい青年とすれ違った。アーダルの治療に当たっているのだろう。

 小広間ほどの大きさがある空間に、青と白の長衣ルクヴァを着た専門家らしい者が4、5名。立ち話をする者もいれば、計測器のような術具を持っている者もいる。

 その奥に、黒光りする鱗を持った巨竜アーダルが眠っていた。動く城のようだった巨体はいまは静かだが、耳をすませばうっすらと鼓動の音さえ聞こえてきそうだ。それほど、圧倒的な存在感があった。


 十年前、アエディクラとの軍事衝突を機に、アーダルは主人ライダーであるデイミオンの感情の爆発に共鳴するように力を暴走させた。彼の炎は神の怒りのように、老竜山と敵軍の一個師団を焼き払ったのだった。そして、デイミオンが制御を取り戻して暴走が収まったあと、アーダルはその反動のように長い眠りに入った。一度も目覚めないままに。

 十年の眠り、というのがいったい古竜にとってどのような危機的状態なのか。タマリスにはそれを書き記した書物も、知識を蓄えた賢者もいなかった。


 竜王デイミオンはほどよく陽光がかげる位置に簡易椅子を置き、そこで書類などあらためていた。その椅子と、夫の膝に寄りかかるようにして、王配リアナが座っている。デイミオンは簡素なドレスシャツ姿で、長衣ルクヴァのほうはリアナにかけられていた。周囲に、房飾りのついたクッションや飲み物の載ったトレイが置かれていることから、二人がここで長い時間を過ごしていることがうかがえた。


 そして、もう一人――いや、一匹、先客がいた。クッションの端で、リアナの揺れる金髪をつかもうと小さな手をいっぱいに伸ばしている、黒い生き物。


「リア……」声をかけようとしたファニーだったが、懐から「ころん」と転がり落ちたもののせいで言葉が続かなかった。「おっと」


 そのは地面に衝突しても痛がる様子もなく、琥珀色の大きな目をぱちぱちさせて周囲を探ると、ぱっと駆け出した。「あ、待て!」


 ちょろちょろと動き回る幼竜を、リアナの白い手がすくいあげた。

「あなた、いつから子持ちになったの、ファニー?」

 リアナは手のひらの竜をじっと観察した。「うちのドーンと同じくらいの月齢かしら?」

 クッションの上の黒いトカゲ……いや、古竜の子どもだ。なんと、希少な竜の希少な幼体こどもが同じ場所に二柱もそろうとは。

 デイミオンも「ん? 紅竜……いや黄の幼竜こどもか?」と頭を向けた。


「ごめんごめん、わかると思うけどやんちゃ盛りでね。じっとしてないんだ。……ゴールディ、ご挨拶は?」

 前半を夫妻に、後半をトカゲのような幼竜こどもに向かって言う。手のひらにすこし余るくらいの竜は、主人の指示が分かったのか「ぴい」と元気に鳴いた。


 近寄ってハグすると、リアナは嬉しそうに受けた。「お帰り、無事でうれしいわ。……でも、ちょっとタマリスを空けすぎよ」

「手紙を送ってたじゃないか」

伝令竜バードの手紙なんて暗号みたいなものじゃない。ニザランのことは詳しく書いてあるけど、あなた自身のことはちっとも書いてよこさないし。でも元気そうでよかった」


 黒と黄の幼竜は、お互いにおっかなびっくりといった様子で近づいていく。つるんとした小さな鼻先でつつきあって、どちらも「なんなんだ、この生き物は」という顔をしているのがおかしい。


「かわいい盛りだわ。ドーンのいい遊び友達になれそう」リアナが「ドーン」と呼ばれた黒竜の頭をつっついた。

「僕もそう思って、こっそり連れてきたんだ。ルルが子どもを産んだって聞いたからね」

 リアナがうなずいた。顔にいくらか複雑な表情を浮かべている。「アーダルが眠ったままで、レーデルルだけが繁殖期に入ったんだけど、なかなか気に入る相手がいなかったみたい。……わたしは人工授精にはあんまり賛成じゃなかったんだけど、ルルは育児で張り合いがでたみたいだし、結果オーライかなと思ってるの」

「そっか。いいことだと思うよ」友人夫妻にもいろいろ葛藤があることはわかっているので、ファニーは優しく相づちを打った。

「ルルは?」

「散歩よ。じき帰ってくるわ。ここが子守りの定位置なの」 


「それで?」

 デイミオンが尋ねた。「本題に入る前に確認しておくが、その幼竜こどもはどうしたんだ?」


 あいかわらず、前置きや時候の挨拶というもののない男だ。ファニーは懐かしく思いながら、手近な椅子を引っ張ってきて、そこに座った。

「話すとちょっと長くなるけど、今回の使に関係してるんだ」


「じゃあ……この竜がなのか?」

 デイミオンは羽ペンを置き、上半身をしっかりとこちらに向けた。「マリウス卿……いや、〈くろがねの妖精王〉が眠りから目覚めさせたという?」


?」リアナが夫を見あげ、けげんそうな顔をした。オンブリアの自治領、ニザランには〈くろがねの妖精王〉と呼ばれる王がいる。複雑な来歴ながら、リアナと深い関係のある男で、竜族の領主だった時代にはマリウスという名前で知られていた。イニというのは、リアナの養父だった時代の偽名である。

「そんな話は聞いていないわ。どういうことなの、デイ?」


「これは、本当につい最近わかったばかりのことなんだ。だから、デイミオン陛下にも口止めしておいたんだよ。でも、すごく大切なことなんだ」

 エピファニーはそこですこし間を置き、十年来の親友とじっと目を合わせた。



「アーダルを目覚めさせる方法があるかもしれない」




 

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