第十三章 おっさん、思い出し照れる

「ちょっと意外でした」

「――え? な、何がだい、加護野君?」


 あのトーナメント戦の翌週の活動日、稽古の途中で休憩を取り水分補給をしている時に加護野君が突然そう呟いたので、私は少し慌てて問い返した。


「ほら、この前のトーナメントの時ですよ。寺崎さんって、あんな風に感情を剥き出しにすることがあるんだなって、初めて知ったので。いつも取り乱さず、冷静だと思ってましたから」

「あ……あ、あの、アレね……」


 言われて途端に恥ずかしくなる。頬が熱い。

 所在なさげにぽりぽりと鼻の頭を掻きつつ、私はもごもごと口ごもった。


「や、やめてくれよ、思い出すと妙にこっ恥ずかしいんだ」

「駄目です。弟弟子の僕をコテンパンにしたんですからね。それくらい許されますよ」

「根に持ってるなあ」

「当たり前じゃないですか! 最後のアレ、教えて貰ってないですよ? ずるいなあ、もう!」

「ああ、アレね。アレは奥義中の奥義だから、まだ駄目」


 私はそう冗談めかしてうそぶきながら、ふと、あの日の夜を思い出す。




「遂にやったじゃないの!」

「おめでとうございます!」


 サークルの皆からの浴びせかけられる喝采は実に暖かく、心地良かった。


 たかが一回。

 されど一回。


 次はもうないかもしれない。

 神様の他愛もない悪戯が生んだ奇跡だったのかもしれない。


 それでもやはり、かつて私の中で悲痛なる産声を上げた『勝ちたい』と願った小さな『獣』は、あの時、あの瞬間、喩えようのない程の幸福感に満たされ、波のように押し寄せる歓喜に身をうち震わせたのだ。




 ウチに帰るなり、今まで話もしなかったサークルの話を仔細にわたるまで言って聞かせ、遂に今日、念願叶ってトーナメント戦に勝利したのだと告げると、カミさんは食卓の反対側に座ったまま頬杖をついてただただ私の言葉に耳を傾け、うんうん、と微笑みながら何度も頷いていた。


 最後にカミさんは微笑みを崩さず、シンプルにこうとだけ告げた。

『やっぱりあなたも男の子だったのね』と。


 私は何故だかたったそれだけの言葉で、今までの全てが報いられた気がしたのだった。




 ぷは、とペットボトルの飲み口から唇を剥がし、加護野君は天井を見上げた。


「やっぱり悔しいです。勝ちたかったなあ」

「大丈夫。そう思い続けてる奴は、いつか勝てる。私みたいにね。ずっとそうだったんだ」

「でも、楽しかったですよね、師弟対決」

「うん。まだまだ続けていたかったよ。ふと、これで終わっちゃうんだ、なんて思ったり」

「ですねえ。次の楽しみが増えたって感じです」


 私は流れ落ちる汗をタオルで拭い、ふと尋ねてみる。


「そういえば、龍ヶ峰さんに頼まれた、サークルのポスターってどんな具合だい?」

「まだイメージが組み上がらないんです。あの試合の時に閃いた気がしたんですけど……」

「そっか。でも、まあ、焦ることはないからさ。とびっきり良いのを頼むよ」

「またそうやってハードルを上げるんだから……。最近、北島さんに似てきましたよ?」

「うえっ!? そ、そうかな……?」


 嬉しいやら嬉しくないやら。


 そういう加護野君も、最初に会った時に比べたら随分と印象が変わったことに自分自身で気付いているのだろうか。


 だが、私はもちろんのこと、加護野君も何度も変われば良いのだ。

 変わって、変わって、何度も変わり続けて、なりたい自分になれば良い。


 齢四〇になってから、ああ自分はつまらない人間なのだ、と思っていた私が言うのだ。


 普通に仕事をし、普通に家に帰り、普通に食事を摂り、普通に風呂に入って、普通に寝る――その一連のルーティンめいた行動を何の疑問も持たずに実直にひたすら繰り返してきた私がただ一度、勝ちたい、と悔し涙を流し、何度も何度も何度も鍛練を積み重ねて、ようやく勝ち得た勝利に酔いしれた私が言うのだ。間違いはない。


 加護野君はまだ若い。

 これからいくらでも変わることができる。変わってしまうことができる。


 それを羨ましいと思いつつ、間近で見ることができる私は幸運なのかもしれないとも思う。




「よし! そろそろ再開しようか!」


 腰を上げると――ん? 加護野君はまだ座ったままである。

 振り返ると、子供じみた表情で口を尖らせた。


「アレ、教えてくださいよ、寺崎さん」

「奥義なんだって。秘密なの」

「えー。……じゃあ僕は、アレを破る一手を考えます。そしたらまた手合わせしてください」

「いやいや。無理じゃない? できたら見せてよ。相手するからさ」

「絶っ対ですよ? もうイメージはあるんですから」


 ははは、と笑いながら歩み出て構えると、その正面に加護野君が並び立った。

 そして、どちらが合図するともなくいつも通りに身体の芯まで届くように型を繰り返す。




 構え、止めて、振り下ろし、構え、止めて、受ける。

 構え、止めて、振り下ろし、構え、止めて、受ける――。



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