第十章 おっさん、才能に圧倒される

 だが――。

 次のサークル活動の日、加護野君は時間になっても『会議室A』に現れなかった。




「あら? どうしちゃったの、加護野君は? 寺ちゃん、何か聞いてない?」

「そうなんですよ。失敗したな……携帯の番号くらい、交換しておくんだった」


 そう北島さんには答えたものの、言ったところで素直に教えてくれたかどうかは私にも分からない。だが、聞いてもみなかったというのはとんだ失態である。これでは兄弟子失格だ。


「何かの用事で遅れてくるのかもしれません。まだ始まったばかりですし」

「そうね。遅刻厳禁!ってサークルでもないもんね、ウチは。慌てて来るんじゃない?」


 しかし、その日は結局、加護野君は我々の前に姿を見せることはなかった。






 その日の帰り道である。

 偶然に、本当に偶然に、駅からの人波の中に見たことのある少年の姿を見つけたのだ。


「加護野君!」

「あ――」


 いかにも罰が悪そうに肩をすくめる仕草をする。自転車を押す彼の隣に大急ぎで駆けつけた。


「あの……今日は……そのう……」

「いやいや! 良いって良いって! 畏まるようなサークルじゃないでしょ。まさか、何処かで事故にでもあっちゃったのかなあと、少し心配はしちゃったけどね」

「……済みません」

「良いってば。何か用事があったんだろう? じゃ、仕方ないもんね」

「そうなんです! あ……別に嫌になったからとかじゃないですよ?」

「はは。義理堅いなあ、加護野君は。そうだったらそうで、言ってくれれば誰も怒らないし」

「ホントですってば! 寺崎さん、意地悪いですよ? 僕、怒ります」

「ごめんごめん。そういうつもりじゃないって。ははは。でも、良かった」

「そう言って喜んでくれる優しさも寺崎さんっぽいですね。やっぱり僕の兄弟子です」

「そうかい? ははは」


 何があったの、とは聞かない。

 言いたければ言ってくれる、私は常にそう考える人間だ。


 そろそろ頃合いという時分に、私はまた嬉しくなって子供じみた大袈裟な手振りで加護野君の後ろ姿を見送る。今日は加護野君も同じように大きく振り返してくれた。これでいいのだ。




 次のサークル活動の日である。




 今度は、加護野君は誰よりも早く『会議室A』に一人いた。次に来たのが龍ヶ峰さんで、私が三番目だったようだ。何やら二人して話し込んでいる。加護野君の手には、例の太い筒が握られていた。


「――それは面白いですね。是非、皆さんにも見ていただきましょう。いいですか?」

「ええ。そのために僕、前回お休みをさせてもらったんです。済みませんでした」

「大丈夫です。まあ、寺崎さんは終始落ち着かない様子でしたけれど……おっと失礼」


 相変わらず読めないお人である。きっと私が来ているのにも気付いていただろうに、龍ヶ峰さんはわざとらしく私の方を振り返りつつ言った。じきに他のメンバーも集まり始め、すぐに『会議室A』は騒がしくなる。その中、加護野君は自らの手に握り締めた筒から大事そうに丸められた紙を取り出し、広げ始めた。


 ちらり、と龍ヶ峰さんが加護野君に合図を送る。


「ええと――」


 声が小さい。

 もう一度声を張り上げた。


「ええと! 皆さん、前回は来れなくて済みません! 実は僕、絵を描いてまして――!」


 頬がうっすら朱に染まっている。慣れないことで照れもあるのだろう。私には加護野君が何をする気なのか察しがついて、彼の一挙手一投足に注目することにした。


「絵だけが僕自身を表現する方法だって、寺崎さん――兄弟子の一言で気付かされたんです。なので、これが僕、という絵を描いてきました。それを今から皆さんにお見せしたいと思います。いいでしょうか!」


 おお、と言う感嘆の声はあったが、誰一人、否と首を振る者なぞいなかった。初めはおずおずと、次第に賑やかしく拍手が巻き起こる。加護野君はますます真っ赤になった。


「そ、そんなに凄い物じゃないです! でも、一生懸命描きました! 僕がこれです!と言える物をしっかりと、自分なりに描いてきました! ぜ、是非、お願いします!」


 やがて我々の前に広げられた物は――。

 ほう、と龍ヶ峰さんの口から驚嘆の溜息が漏れ出た。私も同じ思いだった。


 いや、皆そうだったのだろう。言葉が出ない――陳腐な言い方だが、まさにそれである。


 赤々と灼熱に溶かされた鉄のようなどろりとした真円は月だろうか。青黒く透き通るような星空の中で、それが生き生きと脈打っているかのようだった。そして、そのはるか下の地平でそれに憧れるように見上げ、必死で手を伸ばす少年の姿がある。爪先立ち、背を伸ばし、手を千切れんばかりに虚空へと差し伸べて、何とか少しでも、ほんの少しでもそこに近づきたいと願い、叫びを上げているようにも見えるその姿は、加護野君自身なのか。少なくとも私にはそう見えた。そして、唐突に、きゅっ、と心の奥が締め付けられる、そんな思いがした。


「……これが僕、僕なんです。改めて、皆さん、よろしくお願いします!」


 真っ先に手を叩いている自分に気付かなかった。手が痛い――それで気付いたくらいだ。視界がぼやける。何だ、泣いているのか、私は。驚いて目をしぱしぱするとそれが治まった。次々と拍手の輪が広がる。全員だ。北島さんなぞは興奮のあまり隣の岡田さんを叩いている。


「実に見事ですね。素晴らしい。厚かましいですが君にお願いがあるのです。いいですか?」


 龍ヶ峰さんは実に誇らしげに加護野君――いや、親愛なる同志の顔を見据えて告げた。


「当サークルのポスターを加護野君に描いて貰えたらと思うのです。お願いできますか?」

「え、僕でいいんですか!? ……ええ、分かりました。精一杯頑張ります!」



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