第八章 おっさん、弟弟子を持つ
「
週明けの火曜日のことだ。
そこで私はようやっと目の前で控え目に頭を下げている少年の名前を知ったのである。
こう書きます、と通学鞄から何やらのプリントを取り出し、それを裏紙にして
「珍しい苗字だね。何処の出身なのか聞いてもいいかい?」
「僕は埼玉生まれですけど……父は元々奈良の生まれで、その辺りにしかいないそうですよ」
「ふうん。勉強になるなあ。……とと、今更だけど、私は寺崎正と言います。よろしくね」
「はい。寺崎さん……で、大丈夫ですか?」
「もっと気楽でも良いよ。と言っても、他にないか。ははは」
にしてもだ。
ついこの間、北島さんの初めての弟弟子になった私が、今度は高校生の彼を弟弟子に持つことになるとは信じられなかった。まだ人様に何かを教えられる知識も腕もないと思うのだけれど、龍ヶ峰さんの『では、寺崎さん、色々と彼の面倒を見てあげてくださいね』という一言にあっさりと流され、兄弟子となってしまったのだ。ほとほと弱ったものである。
色々と――という部分に
(今の……この現実が嫌だから、です)
少年の――いや、加護野君の抱えている物。そこも含めての『色々と』なのだろう。まったく龍ヶ峰さんの無茶振りには困ったものだが、あの時のあの表情は、随分と私に過度な期待をしているように思えた。ううむ。
「じゃあ、着替えたところで早速だけど、
「あ……は、はい! 是非お願いします!」
「最初に型から教えていくね。こうやって……こう。はい、これが上段の構えと受けだ」
「こうやって……こう! えと、できてますか?」
「うん。大丈夫。私の最初の時より上手いくらいだから。じゃあ、どんどん行こう――」
とっぷりと更けた夜の闇が窓
構え、止めて、振り下ろし、構え、止めて、受ける。
覚えてしまえば単純な動作だが、試合中、その時、その瞬間に最も適した型が
私はそれこそ糞真面目で、几帳面で、それくらいしか取り柄のない『つまらない人間』だ。
でも、それだからこそ私には、人に何かを教える方法なんてこれきりしか思いつかないし、これこそが最短かつ最も重要で大切な教え方だと思ったのである。だから全力で必死にやる。
一通りの型を見せ、身体を動かしてもらったところで加護野君に向けて頷いた。
「いいね。じゃあ一旦小休憩を挟んで、もう一回最初からやってみよう。大丈夫かな?」
「は、はい、僕なら大丈夫です。ちょっと水分補給します」
「ああ、私もそうしよう。大切大切っと」
壁に沿って置いてある隣同士の荷物のところまで戻り、偶然にも同じ銘柄のミネラルウォーターのペットボトルを、同じタイミングで、ぐびり、とやったところで顔を見合わせ、どちらともなく笑顔が浮いた。
「寺崎さん、教え方が上手いです」
「そ、そうかな? そんなこと言われたの、家でも仕事場でもあまりないんだけど。ははは」
「僕、お世辞は言えません。そんなに器用じゃないし、あの……人より変わっているので」
「そうなの? その点、私は普通だな。普通の――」
「元『つまらない人間』、でしたっけ? そんなの見当違いもいいところです」
「何だか照れ臭いなあ。駄目だよ、
私は気付かないフリをする――加護野君が口にした『人より変わっている』という一言に。
無理に聞き出したところで私には何もしてやれない、そう思ったのは事実だし、そもそもまだまともに口を利くようになったのだって今日の今日だ。言いたくなれば、誰かに聞いて欲しくなれば、問わずとも加護野君は自ら語ってくれるだろう。余計なお節介をして気楽に背負い込めるほど、私の背中は広くも逞しくもない。
だがもしもそうなったら、兄弟子として出来る限りのことをしてあげたい、そのくらいの意気込みと意地と決意が私の中に生まれつつあった。今はそれでいいと思うのである。
「さあ、もう一回やってみよう。何事も基本が大事。いいね?」
「はい! お願いします!」
構え、止めて、振り下ろし、構え、止めて、受ける。
構え、止めて、振り下ろし、構え、止めて、受ける――。
サークル活動の時間も終了し、心地良い汗をかいた私は加護野君と一緒に公民館を出た。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。さすが高校生だなあ、って感心しちゃったよ。おっさんも負けてられないな」
「また木曜日もお願いします、寺崎さん」
「うん。楽しみにしてるよ。また殺陣の練習だったら、今度は打ち合いをしてみようか」
「ちょっと楽しみですね。僕、身体動かすのは苦手な方なので、正直不安でした」
「そうかい? そんな風には全然見えなかったけどね。センスあるよ、大丈夫大丈夫」
私は徒歩、彼は自転車を押しながら同じ方角へと歩いていく。
ふと気づいたが、彼は通学鞄以外にもう一つ別のトートバッグを持っている。てっきりサークル活動で使う着替えなどが入っているのだろうと思っていたのだが、そうではなかった。何やら太くて丸い筒が覗いている。興味を覚えた私は何気なく尋ねてみた。
「それ、何が入ってるんだい?」
「あ……これですか。僕、絵を描くことだけが唯一の取り柄なんです。それだけなんです」
それ以上深くは尋ねず、私は子供じみた大袈裟な手振りで加護野君の後ろ姿を見送る。
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